かぶり

過去捏造描写あり
医食同源。
食事とは生命活動に根差す行為であり、その根本を改善する事こそが病巣を治す事になる。

同種同食。
胃が悪ければ胃を食べる。肝臓が悪ければ肝臓を食べる。心臓が悪ければ心臓を食べる。

病の克服は人類の悲願である。
どれだけ富を投げ打ってでも、己の身を苛む病を払いたいという願望は、数多の生命に存在する。

それは、二人とて同じだった。

「公爵。何をするつもりだ?」

「伯爵。これは私としても心苦しいものなのですよ」

伯爵と呼ばれるのは、白髪の青年姿。
公爵と呼ばれるのは、灰色髪の老年。

青年伯爵の左足首には鉄枷が嵌められている。
彼の身分に相応しくない装飾であり、彼が不快感を示すに足る侮辱だった。

「貴方が何者であるかという噂は、人々の間でも多く流れております。
 錬金術に通じ、万の言語を口にし、そして何よりも『不死』なる伯爵であると。
 貴族の階級を超えて、貴方に憧れの目を向ける者は多い」

革靴を石床に衝いて刻む、間延びした時計のリズム。
リズムは青年伯爵の周囲を回る。老年伯爵は八方から視線を注ぎ、彼の真価を目踏みした。

老年公爵の本城から少し離れた石の塔。その地下牢。
石で三方を囲まれた部屋に、もう一方は鉄の檻。

枷と鎖、そして体を伸ばそうとも、鉄の檻に設えられた扉に届こうはずも無い。
故に、青年伯爵は、抵抗もなく支配者の言葉に耳を傾ける他無い。

「憧れというのは、嘆かわしくも王もまた同じく。階級をも超えて、貴方に目をかけている。
 しかし、王が伯爵に(こうべ)を垂れるなど、あってはならないものなのですよ。
 だから貴方は今、いなくなった事になります」

理由の一端を語った老年公爵が、歩みを止める。
肥えた脇腹に垂れた鞘。装飾された鮮色の鞘に納められた鈍色の短刀を抜き取った。

「待て――ッ!」

青年伯爵の懇願は失墜する。
振り下ろされた短刀は彼の者の腕を貪り、柘榴の汁を零し始めた。

「ガアアあぁァあぁぁあああッ! アアッ、あぁあアッ!」

貴族の贅肉が浮いた手では、斬撃の腕は鈍る。
短刀は骨を断ち切れず、刃を肉に埋めた状態に留まった。

「あっ、あァッ、ヒっ」

断続する息。痛みは灼熱。
瞳孔の揺れる青年伯爵を前にして、老年公爵は何も動じない。
老年公爵は短刀を縦から横に移し、骨の上を滑らせて腕肉を剥ぎ取った。

「――――ッ!」

嬲り殺すつもりか。
これまで何度と味わってなお古びぬ恐怖を覚え、青年伯爵は奥歯を噛み砕く。

死刑を覚悟する彼の耳に、老年公爵が口を寄せた。

「国の秩序の為。王の権威を保つ為。――そう。貴方にはいなくなってもらう。
 ですがね、一つの行動に一つの目的だけとは決まっていないのですよ」

耳の傍で立つ、舌なめずりの音が煩わしい。

「溺れるものは藁も噂も掴む。もう若いとは言えない私としては、貴方の秘密をいただきたいのです」

壁の灯が蝋を熔かし、床に落ちるまでの時間。
その時間だけで、秘密の証明は充分だった。

青年伯爵の抉れた腕は、たった先まで骨と筋繊維を露わにしていた。
数十秒。回復不可能なはずのその状態が、湧く血と蠢く肉とが寄り合い、全く元通りに肌色を見せた。

不老不死の実証。
長者の悲願を目の当たりにした老年公爵は、切り離された肉を手に、感嘆に薄く息を吐く。

「嗚呼……本に、本に。噂が真であった事に感激いたしますよ。
 それほどの治癒を、快癒を、平癒を、私は取りこみたいのです」

言って、老年公爵は顎関節を開いた。
青年伯爵の目の前で肉を喉に押しこみ、血に塗れた口端を太い舌で拭う。

不老不死の肉を食す。
東の国では人魚を口にす八百比丘尼に同じ。されどその動作に禁忌を犯す恐れは無し。

「医食同源。同種同食。東洋の医術にも長じる貴方なら分かりますでしょう。
 老いたる全身を癒すには、不死の全身を口にするが一番ですな?」

「……何をッ……」

叫声と再生に息を絶やし、青年伯爵が睨め上げる。

――嗚呼、知っている。知っているとも。
賢者、聖人の真似事をしていた自分なら、東洋の医術で扱われる、その言葉の意味を識っている。

睨む青年伯爵を前にしても、老年伯爵は眉根の一つも動かさない。
手にした短刀の血糊を、布を扱うように彼の髪で拭い、鞘に納めて踵を返した。

「それではまた会いましょう、伯爵。流石に貴方の全てを収められるほど、私の胃は太くない」

老年公爵の背が檻から消え、後には鉄枷を嵌められた食肉がわだかまる。

「……(Scheiße)

自由の利く右足で石床を蹴り、青年伯爵はうなだれた。
拘束されているのは、左足。それだけが、己の全てを繋ぎ留めている。

逃げなければ。
その思いだけで、展望もないまま部屋を見回す。

石壁から剥がれ落ちたであろう、転がる石に目が留まる。
石は、部屋の隅に置かれている。体をなんとか伸ばせば、手が届く。

「くっ……」

冷え切った石床に腹を、首を、頬を這わせて、全身をいじらしく伸ばす。
這いつくばるその体勢こそ今の自分に相応しく、だからこそ苛立たしい。
そして、ただの石ころ一つに処遇を預ける自分が情けない。

精神の幾何(いくばく)を虚無に落とし、青年伯爵の手に硬質の感触が宿る。
体を元に戻し、手にした石の大きさを検分する。問題はないはずだ。
そのまま石床に叩きつけ、原始的な打製のナイフを作ろうとする。

何度も鈍い音が耳を打ち、ガチリという音と共に尖端を生む石。
石が欠けるに際して、僅かに手を切った。

「痛っ」

手を引きこみ赤く濡れたナイフの刃をじっと見やる。
図らずも切れ味はある事を確認し、鉄枷を切りつけた。

頭では、鉄と石の強度の差異は熟知している。
当然に鉄枷は傷一つなく、石の刃を欠けさせただけだった。

「…………っ」

綻びが生じたナイフを捨て、新たな石を手にする。
何度も石の響きが渡り、二度目のナイフが手の中で生まれた。

石よりも柔いものでなければ切れない。
摂理は解る。自分が取るべき道も判る。

公爵は永く逡巡し、やがて覚悟を決めた。
震える切っ先で、足首の関節に石の刃を切りつける。

肉と石。鉄よりも確実にナイフは肉を抉り、温く湿った臭いを漂わせた。

「ぎっ……!」

芯まで刺す痛みで足を覆い、覚悟はあっさりと霧散した。

肉を削る速度、そして肉が再生する速度を考慮して、試算を弾き出す。
恐らく何時間もかければ、足首を切り落として自由を手に入れられる。

自由の実現性を前にしても、苛む痛みが躊躇を生む。
躊躇の時間は、ナイフで身を削った一度目の覚悟よりもずっと時間を要した。

他の方法も考えるが、逃げるにこの方法しか思いつかない。
しかし、こんな苦痛を何時間も自分の手で続ける事を、どうしても決心できなかった。

憔悴の中、渦巻く不安と、波の如く寄せる浅い睡眠が、見えざる時計の針を迅速に回していく。
石畳に横たわり、体温が肌触れ合う無機物に吸い取られた。

陽光も月光もない中で、今の時針がどこを差しているのかは分からない。
それでも、檻の外から靴音が響いて分かるのは、自分の後悔は覚悟よりも俊敏であるという事。

老年公爵の目が来るより前に、石のナイフを服の下に隠す。

「やぁ、やぁ。ご加減はいかがですかな、伯爵」

「…………」

――ここまでされて、加減など良いものか。
悪態に口は開けど、干された喉はヒュウヒュウと空気が前後するのみ。

これからもたらされるであろう痛みが、青年伯爵の気力を奪い去る。

「いやはや、公務の合間を縫って参るには、いささかこの塔は離れ過ぎていますな。
 とはいえ召使いに任せるほど、私は人間を信用できないもので。王様の耳が驢馬のそれだと言いふらすのが、人間の性質でございます」

虚ろに石床を見つめる青年伯爵。下がった顎を、短刀の腹で上げさせられる。
喉元に金属の冷気。不快に細めた目が、老年公爵の眼と相対する。

底があるか知れぬ深度。沼色の眼だ。

己と目を合わせて、老いたる沼は笑いかけもしない。
馳走になる牛に抱く感情など、たかが知れているだろう。

老年公爵は言葉も与えず、短剣を青年伯爵の腹に突き立てた。

「ア゛あ゛ぁ゛アアァぁぁぁあっ!」

腹に刺さった短剣が、横隔膜と共鳴して刃を揺らす。
短剣で腹の皮膚を大きな四角に切り出し、脂肪と筋肉を剥がれた腹腔に、脂肪で膨れた手が入りこむ。

「失礼ながら、私は屠殺について微塵も分かりませぬが故。
 しかし私は、本日貴方の肝臓が欲しいのです。さあ、どちらにございますかな?」

「ガあッ、はぁーっ、ハーッ……!」

赤い泡を吐く。短剣は肺までも侵し、自分の血で溺れながら荒く呼吸した。
文字通りに腹を探られる感覚は、痛みも然る事ながらおぞましさが脊椎を走る。

「さあ、聡明なる伯爵殿。貴方にも肝臓の位置が分からぬというのでしたら、愚かしい私めは全部出して見当をつけなければなりませぬ」

耳を打つ脅迫。突っぱねるほどの強さを持ち合わせていない。
激痛に痺れる脳は、精神の尊厳よりも現状の回避を優先した。

「上っ……お前から見て、左上だ……っ!
 胸部の直下っ、ぐっ、そちらじゃぁないっ、その胃より左だっ……」

「おお、おお! ありましたとも、これでございますな」

探り当てたものを両腕で抱えこんで、思いっきり引き寄せる。

「グィえっ!」

吐き気が湧き上がり、血の混じった胃液が口から漏れる。
肝臓に纏わりつく管の幾つかを刃で断ち切り、老年公爵が赤黒い肝臓を腕に収めた。

「狩猟は好きですが、今までは獲物を部下に持たせて料理まで任せておりましてね。
 いやぁ、流石は不死なる伯爵。その叡智は人体の構造にも長じておりますな。これで私は、自分の手で鹿を解体したと言う事ができます。今宵のパンにはレバーペーストを料理人に命じましょう」

老年公爵は目当てのものを手にし、のうのうと去っていく。
その背を呆と見て、青年伯爵は空いた臓腑に暗闇が湧くのを感じた。

躊躇と覚悟。天秤が右辺に傾くには、これから数日を要する事になる。


肝臓を喰えば、体から毒が抜けて痩せるようになった。
皮膚を喰えば、皺も消えて若々しくなった。
目を喰えば先まで見通せ、声帯を喰えば青年の声に、頭を喰えば面相は整い、四肢を喰えば力が漲り――。

今や老年公爵の姿を見て、彼の年齢を正確に推し測れる者はいなかった。

「公爵様、最近とみに若々しくなりましたね。何か良い事がございましたか?」

「いやぁ、ほんの数日前に新しい薬を仕入れまして。その効用が出ましたかな。
 ただ、副作用のせいか、髪が白くなってしまいまして……いやぁお恥ずかしい」

「いえいえ。まるでかの伯爵のようで羨ましい限りです」

貴族同士の会話をいなし、老年公爵は居城を歩く。

廊下の壁に点々と鏡がかけられている。その前を通る都度、老年公爵の姿を映す。
白い髪に白い肌。無駄な脂肪はなく、必要な筋肉はある細い体。社交界で見たならば、どれだけの身分の女性であろうとも振り向く貌。
ただ、その目が緑色に変わっても、どろりとした欲望の色は落とせない。

城から伸びる道を辿り、石の塔へ踏み入る。

今日はどのように素晴らしくなれるのか。鼻歌すらも響かせて、老年公爵は塔の階段を降り、地下牢の扉を開ける。
青年伯爵は、石畳にうずくまり、こちらを見ようともしない。

「ご不調ですかな? いけませんなぁ、そう不健康になってしまっては、私にまで影響が出てしまいます」

老年公爵はそう言いながら、青年伯爵の背に手を当てる。

その背は冷たかった。
死の温度が、手に粘りつく。

「……伯爵?」

怪訝な顔をして、老年公爵は彼の肌色を窺う。

橙色の灯火に照らされてなお青い肌。
血の抜かれた、肌の色。

「――ッ!」

青年伯爵の、縮こまった体のバネが一気に伸び上がる。

「……!?」

老年公爵は危機回避から後退る。距離を取れば、枷にはめられた伯爵がどのような気を起こそうが安全だと考えていた。
しかし考えというものは現実そのものではない。

青年伯爵の左脚が石の床に突き立ち、ぱきりと音を立てる。
その左脚に枷は無い。どころか、足首の先にあるはずの「もの」も無かった。

直立するに足裏はなく、肉の断面と骨の破砕が石床に接していた。

青年伯爵は血溜まりを蹴り、老年公爵に赤黒いナイフを振りかぶる。

「がああああああぁぁぁぁッ!」

悲鳴があがる。それはこの牢に度々上がった青年伯爵の声ではなく、老年公爵の声であった。
ナイフは過たず老年公爵の喉に深く突き刺さっていた。

動脈から湧き出す血が、焚き火のように手を温める。
老年公爵の腕が出鱈目に蠢き、青年伯爵の腕を引き剥がそうと掻き毟った。
その握力は漸次衰えていき、果てに老年公爵の体はびくり、と痙攣し、ゆっくりと後ろに転倒した。

それきりだった。

粘った口調も趣の悪い思考もぷつりと消え、血の中でヒトに返る。
青年伯爵は、ヒトの死体を見下ろした。

嗚呼、自分の身は何と呪われた体であろうか。
生きているだけでかように狙われ、不死を求めるものに貪られる。

ならば不死とは、病であろう。
己の心を身を害する病。その病的な不死を治すにはどうするというのだ?

医食同源。
同種同食。

度々注がれた思想を反復する。
青年伯爵の目は沼に淀み、暗闇の口を開く。



彼のねじくれた精神はこう結論づけた。
自分の体を作るのは食べた物である。
自分は人間であり続けたい。
ならば……。


公爵の噂は細波となり、人々の間で静かに知れ渡った。
彼の若々しさたるや、まるで時計の針を戻したかのように若くなったと。

しかし、彼が口にしていると公言していた薬の副作用からか、その髪は真っ白な銀髪になっていた。
貴族たちの多くがその薬の出所を探ったが、公爵は口をつぐむばかりで何も言おうとはしなかった。

そして何事もなく数日が過ぎた時、公爵は姿を消した。
小間使いたちが捜索を行うと、その地下に公爵の死体が幽閉されていた。

奇妙なことに、その死体の血液はすでに枯れ果てており、数十日も前に死亡していたと推定されている。

公爵がその生きた姿を公に見せたのは数日前。しかし死体は数十日前。
奇妙な不一致は、荒れ狂う波となって領土中の噂となった。

銀色の綺麗な琴を爪弾き、ある吟遊詩人は唄う。
公爵は不死を求め、悪魔と契りを結んだと。
悪魔は対価に命を求め、悪魔は公爵の皮をかぶっていたのだと。

全ての行方は杳として知れず、ただ唄の悪魔だけが知るのみとなった。