疑問符と共に

過去捏造あり
「あの男」本名あり
夕刻。
昼と夜の間。
太陽は、燃え尽きる瞬間の蝋燭の色をしていた。

植樹による緑の塀の向こうからは、行き交う靴音、遠く聞こえる喋り声……人々の営みが、視界の至らぬ場所で息づいている。

ここしばらく、彼は独りでいる事を続けていた。

次世代医療研究所の裏にあり、近くに戸口もない殺風景な空間。
先まで自分のいた箱物の外壁に寄りかかり、彼はポケットから箱を取り出した。

紙煙草が二十本入った、何ら特別でないものである。
外包装のフィルムを乱暴に剥がし、慣れた手つきで開け口をめくり一本を引き出した。

煙草を口につけ、予め左手に握っていたライターで火を灯す。
深く息を吸い、肺に煙を溜めこんだ。

そして一気に息を吐き出せば、橙色の空間は白く濁っていく。

彼は、長く独りでいた。
あの二人の友人――いや、あるいはそれ以上の存在の二人――に会うまでは、彼は他人とつるむ事を好んでいなかった。

だからこそ、独りでいるというのは慣れたものであり、一種の安堵を覚える状態である。
研究所の裏のここならば、「彼女」を気にせず呼吸器に馴染んだ煙草を吸える。喫煙室のように、他人と会う事もあまりない。

あえて幼稚な表現をするならば、ここは彼の秘密基地であった。
あの二人にも知らせてはいない、彼だけの空間。

いや、別に友人といる事が苦痛なのではない。むしろ、共に会話や実験を楽しむ事は喜びに通じている。
ただ、長く付き合ってきた孤独という状況に帰りたい時もある。それだけの話だ。

「さて……」

誰に言うでもなく、自分の中で段落をつける。
既に煙草の火口は口元に迫っていた。

コンクリートで固められた足元に煙草を落とし、靴底で火を踏み消す。
また新たな煙草を取り出して、再度同じ味を肺胞に覚えこませる。

緑の向こうには、程よいノイズの喧騒。
空から落ちるのは、橙色(とうしょく)の陽光。
燻る煙。彼しかいない、不純物のない空間。
実体のない時針が刻む中、それも気にせず安穏をたゆたう。

今この刻だけは、世界は揺り籠として在っていた。


「……ん?」

フレデリックが仕事場に戻ると、やけに騒がしい声が聞こえる。

「――お願いです! 私はただ、貴方の研究について少しでもご助力したいと思っているのです!」

その声を発しているのは、小太りの中年男性だった。
首からは来客証を提げており、外部の人間だと知れる。

「でも、この研究については僕が注力したいと思ってまして――」

そしてその小太りが食ってかかるのは、フレデリックの友人である飛鳥だった。

全てを把握してはいけないが、どうやら小太りは、飛鳥の研究に加わりたいと主張しているらしい。
ただ、ボランティアではないだろう。研究に加わって、あわよくばその成果をかすめ取りたいという野心が、その必死さに表れている。

「せめてお話でも!」

「い、いや、悪いけど、ちょっとやるべき事があって……」

しどろもどろの飛鳥を見かね、フレデリックが声をかける。

「おい」

「何だねっ!? ――あ、いえ、何でしょう?」

すると、小太りの声が小さくなった。

フレデリックは研究者である。
しかし、その身分を裏切るような体躯を持っていた。

背は高く、小太りを威圧するように視線が上から注がれる。
何らかの選手かと見紛う筋肉を備え、その気になれば小太りを叩き出す事も出来よう。

柔和な飛鳥と違い、威圧感あるフレデリックを前にして、小太りはようやく言葉を引っ込めた。

「その……お忙しいところ失礼いたしました」

そして尻尾を巻いて小太りが去り、フレデリックはため息を吐く。

逃げ去る小太りと入れ違いにアリアが入り、「あーっ」と声を上げる。

「フレッド、お客さんをいじめちゃダメだよ?」

「ありゃ客じゃねぇ」

フレデリックは気分を宥める為、胸ポケットから煙草を取ろうとする。
しかし当の煙草は既に消費済みであり、手指は虚空を掻くだけに至る。

その動作を見て、アリアが「もう」と頬を膨らませる。

「ここ禁煙だよ? タバコ吸っちゃダメだって」

自分の小さな失敗を責められ、フレデリックは額に手を当てる。
飛鳥は苦笑し、それを受け入れる。

これもまた彼の日常だった。
一人でもあり、あるいは三人でもある。
これが、四人になるとすれば、それは過分なものだろう。

だから、これで充分だ。


紫煙は昨日のように、橙色の空気に混ざっていく。

全ては一枚の布、地続きの日常。
何の不純物もない、昨日と今日の二点を過ぎる延長線。

そう思っていた。

「……ーっ」

煙で可視化された息は、これで幾度目だろうか。

大分身を削った煙草をつまみ、地面に落とす。
そして火種を消そうと靴底を上げたその時、ようやくフレデリックが気づく。

目も向けずに火種を潰していたら、「それ」をも潰す所だった。

「それ」は黒いわだかまり。
彼の足元の近くで座りこんでいる、鴉だった。

「どけ」

足を振り子にし、このまま蹴るぞと仕草を示す。
対して鴉は、羽毛に埋もれた同色の瞳をこちらに回し、すぐにぷいとそっぽを向く。

「お前の存在は知っているが、お前の為に退く義理はない」

そんな不遜な態度のように思え、いっそ潰してやろうかと邪念がよぎる。

だが、たかが鳥頭に、それほど高尚な意地はないだろう。
単に、自分が鴉の素振りを深読みしただけだ。

とはいえ、自分のすぐ傍に生き物がいるという事は、フレデリックの心をざらつかせた。

これまで、彼の夕方の日常は一人だった。
それが一人と一匹になった。

他の人間であれば些細な事だと笑うだろうが、この純粋な空間においては大きな異物である。

爪先で鴉を突つき、フレデリックが声を張る。

「おいっ」

明らかな接触にも関わらず、ふてぶてしく鴉が居座る。
本当に蹴飛ばそうかとも考える。
動物愛護精神に溢れている気は全くないが、しかしそれは後味が悪いと己を諌めた。

「ちぃっ」

大きく舌打ちし、新しい煙草を懐から取り出す。

小さな不快と共に、時間は苛立たしく過ぎていった。


「……ん?」

部屋に戻って、目に飛びこむ。

「お帰り、フレデリック」

パイプ椅子に座る飛鳥と、テーブル越しに話していたのは、見知らぬ男だった。

「客か?」

飛鳥がうなずき、その男を手で示す。

「客、というか――うん、まぁ、訊きたい話があってね」

訊きたい話?
胸中に、引っかかりを覚える。

飛鳥はこの分野の先端に位置する優秀な人材である。
故に、彼と同じ土俵に上がれるような人間は少ない。
そんな彼が話を乞うような人間――つまりは、彼よりも知識を蓄えている人間――など、更に限られている。

その限られた人間など、この界隈で非常に知名度の高い存在だ。
しかし、今飛鳥と向かいになっているこの男の姿を、全くにもって見た事がない。

長い白髪に、妬ましげな碧眼。
痩せぎすなように見えるが、常人より筋が備わっているのは服の上から窺える。
整った容貌は冷たさを感じるほどで、猛禽類のような双眸は見るものの記憶に刻む鋭さだ。

だが、彼が何者か、記憶に該当するものはない。

「誰だ?」

ぶっきらぼうに訊くと、飛鳥の口が開いた。

「レイヴン、だよ」

やはり、知らない名だった。

「……そうか」

人名にしては不吉な名ではあるが、そんな感想を顔に出さずに胸にしまう。
フレデリックが今しがた出てきた扉から、追ってアリアが顔を出した。

「あれ? またお客さん?」

「んー……いや、友人……かな?」

「どゆこと?」

赤髪が揺れ、アリアの首が傾いた。

「二人が揃ったところで、本題に入ろうと思う」

飛鳥は視線でレイヴンを指し示してから、フレデリックとアリアに目を戻した。

「彼――レイヴンは、ちょっと特異体質でね。
 それが、僕としては非常に興味深い容態なんだ。

 今後は体質について、僕の実験に付き合ってもらう。
 仮に体質を解き明かしてからも色々と手伝ってもらう予定だ。

 二人ともよく顔を合わせる事になると思うから、よろしくね」

椅子に座りながら、レイヴンが首を前傾させる。会釈、というには微弱な動作だった。
アリアは呼応して背を曲げ、彼よりも深く礼をする。

「よろしくお願いしますね、レイヴンさん!」

「…………」

直立したままのフレデリックは、レイヴンに警戒の視線を送るのみである。

第一感を単語とすれば、異物。
密結合の三人に入りこんだ人間。

自分の冷静な部位が、「坊やかよ」と己をなだめる。いつもの遊び場によその子供が来て拗ねるようなものだ。
だが、それ以上に直感が不快にざわめく。

――信頼のできない男だ。

「ほら、突っ立ってないで、挨拶しなよー」

いつまでも反応しないフレデリックに焦れ、アリアが肘で突っついた。

「……ああ」

レイヴンよりもずっと僅かだけ会釈し、それだけで済ます。
無礼なフレデリックを見たアリアは、困ったような笑顔をレイヴンに向けた。

「あ、あははー。ごめんなさいね、この人、ちょっと無愛想で!」

「……いや、別にいい」

初めて声を聞く。
低く、人馴れのしない声だ。

それが尚更、フレデリックの癪に障る。

煙草がやけに吸いたい。脳を鈍らせて、よりこの事態に冷静に立ち会いたい。
どうせ、ただの一時的な滞留に過ぎない。時が過ぎ去ればやがて場を去り過ぎる。

それでも、確たる不信の要素が、唯一。

――飛鳥(アイツ)が、そんな医者のような事をするか?
人間の体の事は医学の分野だ。生命情報学とは全くの無縁、と切り捨てるほどではないが、距離の離れた分野だろう。

その不信がそのまま飛鳥に伝わったようで、取り繕うように説明する。

「彼とはよく話しているけど、そんなに悪い人じゃないよ」

「そんなに? じゃあ少しは悪いのか?」

半ば冗談で揚げ足を取るフレデリックに、ぎゅむ、とアリアが腕を抱く。

「……何だ」

「飲み。飲みに行こ?」

「はぁ?」

「飲みニケーションだよー。
 初めましてはぎこちないけど、お酒があれば皆兄弟!
 だから、レイヴンさん歓迎会を開いて、少しでも親睦を深めようというコトで!」

「……なにオヤジ臭いコト言ってんだ」

「それに――」

アリアが、フレデリックだけの声を形作って、耳に口を寄せる。

「人見知りのする飛鳥が、こうしてトモダチを作るコトは、きっといいコトだと思わない?」

まるで、友達を連れてきた息子を見る母親だ。

確固たる不信の証拠もないフレデリックは、不承不承に溜息を吐く。

「まぁ、いい……最近は忙しかったからな。息抜きには丁度いいだろ」


「――むにゃ……もう飲めないよぉ……」

「おい、早すぎるだろ」

三人で飲んだ事のある飲食店に移動してから、一時間ほど。
アリアはテーブルに頬ずりし、すっかり意識を夢に沈めた。

飛鳥は彼女の様子に微笑と苦笑を織りこむ。

「はは、最近ちょっと体調悪いみたいだし、疲れてるしね。仕方ないよ。
 まあ、それより、どう? フレデリック。お酒は美味しいかい?」

「……さぁな」

飛鳥の質問を躱し、フレデリックがジョッキを傾ける。

四人用のテーブルである。
フレデリックの隣には、テーブルと添い寝するアリア。
真正面には、カクテルのコップを揺らす飛鳥。
そして対角に、ビールを喉に通すレイヴン。

酒の場において人間は解放されるというが、ここで解放されている人間はアリアのみである。
発起人によれば「親睦を深める」らしきこの場において、レイヴンの口はほとんど動かなかった。

アリアの質問、飛鳥の話題に、無難な言葉を選んで並べる。
つまるところ、自らを明かそうとはしなかった。

収穫のない時間の中、フレデリックが嗅ぎ取ったのは、不本意な同族嫌悪であった。

他人を受け入れず、物事を俯瞰し、味のない酒を舐める。
鏡はないが、きっと自分は同じ目をしている事だろう。

そして自分も同じだから分かる。そう易々と心を開くはずがない。
飛鳥に近づいたのも、何らかの企てによるものだろう。

柔和な飛鳥も、明朗なアリアも、悪人に狙われればどうなるか分からない。
だから、陰ながらでも、力のある自分が牽制する必要がある。

先日の小太りにしても、そうだ。
二人が強く出る気質でない以上、「三人」を保つ為には自分が必要である。
気負い過ぎのきらいがあるとしても、自分にとっては二人は何よりも大事なものだ。

フレデリックの視線に気づいたか、レイヴンもまた睨み返す。
アリアの高い声がなくなった今、険悪な場を和らげる水もない。

唯一の緩衝材なのは、飛鳥だけとなったが――。

「――あ、この間の……」

彼の視線の先には、先日の小太りが飲んだくれているテーブルがあった。
飛鳥は四人用のテーブルから立ち、フレデリックの横を通る際にこっそりと言葉を置く。

「腹割って話し合ってよ。もしかしたら長い付き合いになるかもしれないしさ」

お節介に異を唱えようと顔を回すも、既に飛鳥は小太りに声をかけ始めた所だった。
自分たち二人に会話の機会を与えようというのも真であるが、先日断った事への罪滅ぼしという事も真だろう。全くのお人好しだ。

フレデリックが顔を戻すと、レイヴンの方は未だに飛鳥の方を注視していた。
折角焼かされたお節介である。無碍にもできまい。

フレデリックが意を決して喉を酒気に濡らし、声を発した。

「――どこで、飛鳥と会った?」

一対一。レイヴンは煩わしげに、フレデリックに首を回す。

「私が担ぎこまれた先の病院だな。彼――いや、」

レイヴンは、そこで言葉を切り、逡巡する。
それは名前を忘れたというより、どう呼称するかに惑った、といった様子だった。

「『あの御方』から、接触があった」

やけに恭しい言い方に奇妙さはあるが、フレデリックは話のディテールには目を伏せる。

「それは、何の病気だ? あるいは、怪我か?」

第二の問いには、沈黙。
フレデリックは、拒否に然程驚きはしなかった。傷病の話はプライベートだ。本題でもないし、深く突っこむ気もならない。

だが、これだけは答えて貰う。

フレデリックは真正面からレイヴンを睨みつけ、次の詰問にプレッシャーをかけた。

「それは、どうしても飛鳥でなければならない話なのか?」

レイヴンは、しばらく飛鳥の方角を見やってから、フレデリックに首を振った。

「そうだ」

生命情報学の尖端。
法力学基礎理論の立役者。
応用法力学理論の先導。

飛鳥のどの名も、アメリカで随一の賛美である。蛾を誘う灯として申し分ない。
その毒蛾の一匹としての疑念。それでも払拭できず、フレデリックが閉口する。

沈黙が一分続き、話題が途切れたと測ったレイヴンからも質問が飛ぶ。

「――永遠に生きる事を、どう思う」

何度もその問いを、数多の賢者に投げてきた。
達観した様子のレイヴンへ、彼の望みとは別方向にフレデリックが返投する。

「永遠に生きる人間なんて、いねぇ」

「人間なんていない?」

文章は鸚鵡返しに、しかし感情は怒気を乗せる。

――永遠に生きる人間は存在しない。永遠に生きる者とは、人間ではない。

フレデリックは、そこで初めて彼の感情を見た。
面白ぇ、と幾分か気分が浮き、フレデリックが更に続ける。

「仮に永遠に生きる人間――不老不死があったとして、そしてそれをどう思うかなんざ、それは面倒な事としか言えねぇ。
 俺は二十年生きてきた。それだけでも一杯一杯だってぇのに、ただ八十年生きるだけでも先が思いやられる。
 それが百年、二百年なんざ――そんなモン、好き好んでなりたくねぇな」

自論を結ぶより先に、レイヴンが急に立ち上がる。
起立と同じくして、フレデリックの襟が引っ張られた。彼もまた席を立ち、互いに睨みを利かせ合った。

――好き好んで、なった訳ではない。

言葉を飲みこみ、疑問の形式で攻撃する。

「ならばお前は、今すぐにでも死ねば満足か?」

「短絡的だな」

返すと同時に、こいつも案外「坊や」なのか、と感想が浮かぶ。
恐らく酒の作用もあるだろう。目の前で怒りが煮えてくるのが分かった。

フレデリックは襟を引くレイヴンの腕を振り払う。

「だからといって、生きる事を諦める訳にはいかねぇ。
 死なないままが生きている事にはならねぇが、死ねば生きている事にもならねぇだろ」

哲学の否定。
目の前の、何も知らない青二才の、無思慮な拒み。

結局は、物理学者だろうと、凡人に過ぎない。

これまで繰り返されてきた事だというのに、酒のせいか、苛立ちが収まらない。

「お前には……確実な終わりを持っている。なのに――」

剥き出しの感情を見たフレデリックは、不敵に笑む。

「何が可笑しい!」

レイヴンはフレデリックにつかみかかった。
と――。

「おい……待て」

首が締まるのも気に留めず、レイヴンを制止する。

「何だ? 今更怖気づいたか?」

「違う。飛鳥が出ていく」

何を話していたのかは分からないが、飛鳥と小太りが共に店を出る間際。その様子を、フレデリックの目が押さえていた。
レイヴンはフレデリックから手を離し、飛鳥の後ろ姿が扉で遮られる様を見る。

レイヴンは怪訝ながら、正常性バイアスの下に判断した。

「……単に、この喧噪、あるいは第三者の耳のある場所では難い話をするのだろう」

そう述べる本人ですら、半信半疑の色を隠さない。

フレデリックの中で、レイヴンに向けていた警戒心が、別方向に切り替わる音を自ずと聞く。
礼儀が悪いが、フレデリックはテーブルにお代を置いて店の扉に向かう。
背後から、自分の行動を追うレイヴンの気配がする。

店に入る前は夕方だったが、当に夜風は冷たくなっている。
暗闇で視界が狭まっている中、飛鳥の存在を知覚できていない。

警戒が危機へと変転する。
まだ二人が店を出て一分も経っていないはずだ。だというのに、道のどこにも二人の姿がない。

フレデリックに倣って店を出たレイヴンも、同じ表情をしていた。
状況を口にせずとも、それへの対応が口を衝いて出る。

「それほど遠くじゃねぇはずだ。店の横道に引っこんだか?」

「私が右を見る。お前は左だ」

数秒で二手に分かれ、そしてものの十数秒でフレデリックが見つけ出した。

「――だから! そんな憐れましい目を向けるなら、さっさとオレに協力すんだよ!」

殴打。

「痛ッ――!」

飛鳥を店の外壁に追い詰め、小太りの脅迫が耳に障る。

「テメェ! 何してやがる!」

一気に距離を詰め、怒声と暴力を小太りに浴びせた。

「ぐぇっ!」

フレデリックの右腕が、贅肉で固めた腹を打ち、小太りが地面にしゃがみこむ。
頬に青あざをつけた飛鳥の手を取り、危険人物から距離を離そうとした矢先。

「動くなッ!」

「……ッ」

舌打ちする。

背骨に、金属の冷たい感触がした。直径ごく一、二センチの円筒状。
目にせずとも、小太りが銃口を背に突きつけているという様子が見えている。

「フレデリック!」

飛鳥の悲鳴が上がり、小太りが叫ぶ。

「黙れ! オメーも撃たれてぇのか!」

――撃ったところで、お前が名を連ねようと乞いている、飛鳥の研究が途絶するだろうに。
本末転倒にも程があるが、激情に駆られた小太りは酷く近眼になっていた。

打つ手を探すフレデリックだったが、表道からレイヴンが現れる。

「貴様は――!」

「オメーも動くなぁ! 撃つぞぉ! 撃ったらどうなるか分かってんのかぁ!」

フレデリックの背から、銃口が離れる。後ろで腕を振り回し、三人の内のどれに的を合わせるか惑っているようだった。

「…………」

しばらく様子を窺っていたレイヴンであったが、フレデリックに目を配せた後、小太りへと走り出した。

「ひぃっ!」

それは、明確な脅威にして標的。
小太りがレイヴンに照準を合わせて発砲した。

しかし、素人は動く的に弾を当てる事ができず、店の壁に弾丸を埋めるだけだった。

「――!」

すぐ近くの発砲音に戦慄しながら、フレデリックは彼の目の意味を理解した。

――私が囮になる。お前は、「あの御方」を連れて逃げろ。

「クソッ!」

癪ではあるが、今は彼の思う通りに動くべきだ。
飛鳥の手を引き、背後の戦況に目をやりながら足を動かす。

最後の視界は、レイヴンと小太りの影が重なり、マズルフラッシュ。

横道から離れ、角を曲がり、銃の射線から完全に外れた。
そこでどっと冷や汗が噴き出る。横道からは何度も銃声が鳴り響いていた。

今更、自分が生死の淵に立っていた事を知ると、頭の中がガンガンと痛くなる。

「救急車を! 警察も!」

飛鳥が自分のポケットから電子デバイスを取り出し、緊急通話に指を導く。

先ほどまで閑散としていた人の流れは一気に騒然となり、自分たちから十数メートルの距離を置いて、逃げるでもなく凝固していた。集団心理の作用した野次馬たちである。

フレデリックは通話に立ち止まる飛鳥を引っ張り、野次馬の囲いを掻き分けた。

「どけ! テメェらも逃げろ!」

レイヴンが、己の命を賭けてまで飛鳥を守ろうとしたのだ。
次にあの横道から、小太りが追って来る可能性は十分にある。仮にそうなるとあれば、立ち止まるわけにはいかない。
そうまでして守ろうとしたなら、自分自身も守り通さねば。

フレデリックの覚悟は、しかしどよめきに阻まれた。

どよめきが生まれた先には、横道から顔を出したレイヴンの姿があった。

「レイヴン!」

どよめきは次に、悲鳴に変わった。暗闇から街灯に明度が上がり、レイヴンの右手からは鮮やかな血が噴出していた。
フレデリックが、自分の裾を破って布に変え、レイヴンに駆け寄る。

「おい! 手を貸せッ!」

出血量が不味い。それと障害が出るかもしれない。
傷一つないフレデリックが慌てる様を見て、当の本人であるレイヴンは酷く冷静だった。

「……命に別状はない」

「素人が判断するんじゃねぇ! 今はアドレナリンやβエンドルフィンがドバドバ出てるせいで、痛みがねぇだけだ!」

レイヴンの右手を見て、絶句する。手には拳銃があった。手の平で銃口を握りこみ、そして弾丸が手首に幾つも潜りこんで巣を作っている。
明らかな危機である拳銃を前にして、素手で銃口を押さえ、何度引き金を引かれようとも動かず、ついには弾切れを迎えるまで、己の肉を犠牲にした。

「……馬鹿がっ」

フレデリックが即席の止血帯をレイヴンの右腕に巻いた。

「フレデリック! もう大丈夫だ!」

救急車のサイレンが聞こえた。
自分の手は、自分でない者の血で真っ赤になっていた。
ストレッチャーにレイヴンが無理やり寝かせられた。
隣に飛鳥が乗りこみ、救急隊員に事情を説明していた。

救急車のサイレンが去り、次に警察のサイレンが迫ってくる。

「…………」

ずっと、救急車の去った道を睨みながら、自分の心臓を握らんばかりに胸を掻いた。


翌朝まで、警察に事情を話した。
朝日の中に解放されても、興奮状態にあったからか、睡魔が来る事はなかった。
いつもの時間に研究所に出勤した。飛鳥は、レイヴンと共の病院にいる。アリアも心配して、そちらに行ったらしい。
他の所員は、自分に少し呆れたようだった。薄情だと。それは受け入れる。

いつものように仕事をする。
いつものように研究をする。
そして、いつものように、夕方に研究所の裏に来た。

「…………」

隣には、当然だというように、鴉がいた。
しかし今日、フレデリックは鴉を邪魔だと思わなくなっていた。

(レイヴン)
彼は、自らが死ぬ覚悟の下で、飛鳥を救った。

自分の狭量さ、及び警戒心の空振りに、笑みが零れる。
自嘲、苦笑をないまぜにして、自然と微笑を形作った。

案外、「四人」も悪くないのかもしれない。

自分はいずれ、飛鳥とアリアの二人とは別のチームに配属される。
不満は感じないが、疎外感は覚えていた。それが尚の事、レイヴンに対する当たりの強さになったのかもしれない。

――だが、大丈夫だろう。アイツは、飛鳥を守り切れる。

あれだけの覚悟を見せつけられては、心が広くならざるを得ない。
その広くなった心のせいで、この隣の鴉も気にならなくなったのだろう。

フレデリックが鴉を見下ろす。すると居心地が悪くなったのか、鴉はすぐさま飛び去っていった。
一抹の寂しさを覚えるフレデリックだったが、煙草の火を踏み消し、彼ら三人の研究室へと踵を返す。

今日は一人だけで過ごしていた研究室であったが、そこには先にはいなかった客がいた。

「……よぉ」

彼としては最大限譲歩した挨拶をして、その客がかけている椅子の真正面に座る。

「お早い退院だな、レイヴン」

「ああ」

右手に包帯を巻き、レイヴンが気のない返事をする。

「月単位で入院するような怪我じゃねぇのかよ」

「お前の見間違いだな。掠り傷程度だった」

「見舞いに行った飛鳥とアリアは?」

「別室で話し込み中だ」

サシで向かい合う中、丁度良い、とレイヴンに告げる。

「――飛鳥についていってくれ。あいつは危なっかしい」

昨日の事が、最大の証明だ。
危機感もなく厄介な奴を相手にし、死んでいたかもしれない。
だが、自分があの二人から離れるとしても、この男は協力者として飛鳥の隣に立つ。

いや――それ以上の、友人として、か。

信頼という眼光。
レイヴンは、フレデリックの真っ直ぐな目に射抜かれる。

「……ああ」

相も変わらず冷たそうな返事をしながらも、レイヴンの手が歪む。

『――何故、飛鳥を止めてやれなかったッ!』

いずれ来るであろう幻聴に耳を揉み、レイヴンは痛みを覚えた。
包帯で隠された、再生されて傷痕の無くなった右手ではなく、その心臓が。