蛹の外

生存する物質がいるか判断できない沈黙と暗闇。
物理的な距離で測るとすれば、彼を中心点とした一光年の円を描いたとしても、彼以外に人間の形として人間の振る舞いをする人間は存在しない。

暗闇の中、彼は目に暗幕を下ろし、尚更暗闇に耽る。
確たる意識はない。微睡みに心臓を委ね、薄い胸は天に向かって緩やかに上下していた。
純白の髪は、返すべき光もなく、太陽のない月として沈む。

膨張する宇宙空間に貼りついた孤独の星のようなものだった。
宇宙とは比喩である。
彼は宇宙空間に放り出されて思考を放棄したのではない。

現実世界の法則が適用されないだけ、性質(たち)が悪いのであるが。

「バックヤード」に設けられた居住空間の中、彼の意識の幕が上がった。

夢は、死に近い。
稚拙な観測下において、息の有無だけが一字を一意に定める。

少なくとも、夢を見る間は、経時的劣化を自覚せずに済む。
そういった意味では、寝る事が好きだった。後ろ向きな好ましさではあるが。

億劫に光を灯す。芯を焦がさぬ、油を揮発せぬ、純粋な光源。
その瞬間から空間は一気に白が占拠する。

ベッドから起き上がる。布の柔らかさが肌を滑るも、風や血の触りとの区別がつかない。
人間の矜持を保つ為に、人間の寝具に横たわっていただけだ。仮に大型生物の死骸の皮にくるまり肉を枕にしても、今と同じ顔をしているに違いない。

麻の死骸を剥ぎ捨て、六時間ぶりに足裏が体重を支え始めた。

喉が渇いた、と知覚した瞬間に水を嚥下する。
法術は内臓のように、生理反応めいて不調を埋めていた。
日々繰り返す動作は、百日もすれば無意識の内に収められる。

自分が渇水にあった事すら気づかず、彼は動き出した。

まずに足は「あの御方」の下へと自身を運ぶ。
彼以外に存在する第一の人間であるが、今の主は人間の姿をしていなかった。

「ご健勝でしょうか」

硝子製の蛹に呼びかけた。
返事を頂く事は、元から不可能だと承知である。

そもそも、まだ声帯がない。
「あの御方」は、硝子の中で液体の肉になっている。

蛹とは比喩ではない。
幼虫が成虫になる経路を蛹と呼称するが、「あの御方」はそれを逆行する為に蛹となっていた。

「あの御方」は人間である。人間でない自分とは違う。
しかし、大義の為には人間の時間を超えなければならない。故に、「あの御方」は幼くなる必要に駆られた。

対比。
人間の形から逸脱した人間。
人間の形に固着した非人間。

人間ではない生き物は、人間のような手で蛹を撫でた。
無機質なつややかさが掌をくすぐり、硝子の厚さにもどかしさを感じる。

流動する肉を前にしても、彼は敬愛を崩す事はない。

主が殺戮の引き金に指をかけても、
自分に手を汚すよう命じようとも、
自分より遥かに年を下回る青二才だろうとも、
禿頭の老体になろうとも、

己の忠誠は不動である。肌色の培地状になったとて、今更何を幻滅するというだろうか。

蛹となる前に「あの御方」から頂いたマニュアルを片手に、モニタの文字列を読み解く。
太陽も月もない「バックヤード」だろうと、健康状態の観測は時間で決められている。
決められた時針に従い、無異常(いじょうなし)であると知ると、今回もまた胸を撫で下ろした。

生物学に聡くはない自分にとって、一目見ただけで主が生きているかどうかも分からない。
硝子に収められた主そのものではなく、外部に設けられた端末を把握しなければ、主の危機を察知できない。

歯痒い。
歳月よりも厚い知能の差に焦れながらも、やるべき事を終えた彼は部屋から抜ける。


仮に「あの御方」が危機的状況となれば、居住空間全てに警報がなる仕組みである。
警報から急行する時間も惜しい為、彼は「バックヤード」から離れる事はない。

この無味乾燥とした空間に縛られて、万事に飽き切ったとしても、忠誠心がここにいる。

それでも、空間の範囲内で、精神の飢餓を少しでも潤すものが欲しい。
彼は回廊を意味なく四周してから、覚悟したようにとある部屋の扉を開けた。

「まだ生きてるか?」

主に向けた言葉と概念は似ているが、それよりもずっと軽蔑をこめて訊く。
これもまた、返事を期待していない。むしろ返事がない方が都合が良い。

今度は硝子ではなく、水晶に近い。
蛹のように丁寧に誂えられたものではなく、急速冷凍した結晶のように、それは彼女を戒めていた。

イノ。
彼女は死んだように、あるいは眠るように目を閉じ、結晶の中心に固定されている。

彼女は横暴が過ぎた。
「背徳の炎」を殺そうとし、咎められ、なおも殺そうとしてついには封印された。

ソル・バッドガイへの殺意は、己の中にも燻ぶっている。
しかしそれを否定するのもまた、「あの御方」の為である。
彼女はそれを否定できなかった。
それが、今こうして暇を潰している自分との違いだ。

「全く、愚かな売女だ」

健在であれば百の罵倒が返される、一の罵倒。
当然、健在ではない彼女から、石一つも返されはしない。

煩わしい存在であった。だが今となっては心をざわめかせる言葉すら欲しかった。
返事のない水晶に空虚を覚え、彼は背を向ける。


回廊を、今度は二八回ほど周った。
何故二八回か分かるかと言えば、暇が過ぎて数え上げていたからである。
何故二八回で終わるかと言えば、数え上げる事も暇になったからである。

居住空間とは飽くまで居住空間であり、飽きる為の空間である。
観光地のように暇を潰すスポットなど到底誂えられておらず、必要最低限の機能しか持たない。

その必要最低限の内の一つの部屋に、足を踏み入れた。

今度にも、そこに人間ならざる人間はいた。
いや、過去形ではない。未来形で、人間がいる。

ジャック・オー。
ただし、その姿はない。

存在するのは、機器に封ぜられた魂の片割れと、「バックヤード」に彼女を生み出す為の確率介入の装置。
存在しない者の為の部屋である。

希薄な実存の気配は、たった一人という事実よりもなお独りを強く意識させた。

孤独という現象をクローソーが嫌ったのか。人間とは社会性という色糸が織りこまれた、一枚の布絵である。
存在の可能性が目前にある事実は、蟲毒のように痛みが食い合う。

未だ目にする事のない同胞だが、彼女に対する感慨は既にある。

彼女は死ぬ為に生まれる。

語弊があるが、それが認識だ。
最終的に、ジャック・オーという存在はアリアという人物に統合され、いなくなる。
それを死と捉えても、全くの誤りだとは糾弾されぬだろう。

自分は生きる為に死ぬ。

自分の死は未定であり、彼女の死は確定である。

自分の死は、生物としての最低限の尊厳だ。その尊厳を請求して何が悪いというのだろうか。
一方、彼女の死は、「あの御方」の砌そのものである。
甘美なる死に、更なる価値が積載される。その死の何と羨ましい事か。

孤独が嫉妬に転換するのを自覚し、これ以上の変質を避ける為に彼は再度部屋の扉を閉じた。


ベッドの上に、再度肉を転がした。
眠気がない事に嫌気が差す。現実とは異なる時流が、彼の士気を洗い流す。

覚醒している状態の無気力を持て余し、余力のある脳は不考の枠を外れて不毛な試算に領域を伸ばした。

このまま死ななかったらどうなる? 全てが死に絶えてなお有り続けたら?
自分が死ぬ方法とは無いのではないか? 不死とは不可逆の変質ではないのか?

「あの御方」が死んだとしたら――。

舌を噛み千切る。脳を頭蓋骨の中に収め、痛みの柵に押し留めた。
口にせずとも不敬を行った。自己嫌悪に陥り、その上で更に嫌悪を重ねようと考える。

止めるべき足が、再度「あの御方」の元へと向かわせた。


「再度の来訪、申し訳ございません」

「あの御方」に下賤な自分が訪れた事の謝罪。
返るのは、声の反響と、機具の動作音。

床と靴の擦れる音を伴い、「あの御方」の元へと接近する。

相も変らぬ肉の流動が目に映る。
それに人体の常識を当てはめる事ができず、しばし止まった。

虫は蛹の中、これまでの姿を贄にし、新たなる身体を獲得する。
過去を捨て、未来を得る。その儀式を目の当たりにし、憔悴していた感情が落ち着きを取り戻した。

硝子に手を置く。生命の熱か、あるいは機械の熱か。彼の掌を伝い、腹に熱が落ちる。

透明な御肌(みはだ)に触れる事への畏怖はあるが、上回るのは安堵。

相も変わらず、存命か落命かの違いは理解できない。
それでも、この熱が生命のものだと確信できる。

「――お休みなさいませ」

「バックヤード」に、太陽も月も巡らない。
だが今は、「あの御方」が眠っていると知っていた。