We're All Gonna Die

針は一本だけと決めていた。
決めたのは、数十年前の事だったか。

その時、針はゆうに千本を超えていた。
際限なく痛みを求める欲望に跪き、ただの銀髪だった頭部が本に銀色に輝くようになった時、文字通りの「忘我」というものを体験した。

知識、知性を司る脳に損傷を与える行為。
針が一本貫けば、自分が好いていた事柄を一つずつ忘れていった。
針が十本刺されば、自分に関わってきた人間を十ごと失くしていった。
針が百本抉りこめば、自分が今なにをしているのかすら分からないようになっていた。

気がつけば、何一つ考える事もない霧の底に微睡んでいた。
濃霧の奈落から引きずり上げられたのは、十日ほど後の事だったと聞く。
赤い楽師が悪態を吐きながら、頭の針を抜いていたのを、ただ(ぼう)と水晶体が受容していた。

故に、彼の頭部にはただ一つの針のみが存在する。
今のこの身は、砌である。主の号令に耳を寄せるべきであり、欲望に沈溺してはならない。
己に課せられた主命を忘れる事など、有ってはならないのだ。



だが、決まりとは得てして破られる定めである。


「ただいまー!」

常日頃よりも少し大きな声量で、少女が朝の散歩から帰宅した事を母に告げる。
その差異に母も気づいたようで、朝食の鍋を回す手を止めて振り返った。

「おかえり。なにか、良い事あった?」

「いい……ことじゃ、ないかもしれないけど……あったことがある!」

言いながら、少女は母のいるキッチンまで走る。
彼女の腕には、小さな生き物がいた。

「あら、黒猫でも拾ってきたの?」

「黒いけど、ちがう! とり! からす!」

言いながら、少女が鴉を母に見せる。

「まぁ。捕まえてきちゃったの?」

「つかまえた、っていうか……ケガしてて飛べないみたいだから、守ろうと思って!」

少女が善意を表出させる。
「良い子」に育った我が子を見つめ、母はにっこりと笑んだ。

「あらあら、ならしばらく、うちで休んでもらおうかしら」

「……ずっと飼うの、だめ?」

小さい生物を所有したいという好奇心が、少女の首を傾げさせる。
しかし、母は少女の額をつんと突くと、やんわりと否定した。

「だーめ。このカラスさんも、帰るおうちがあるのよ。
 狭いおうちにずっと住んでいたら、ひろーいお空に帰れなくなっちゃうわ」

「そっかー。なら、帰れるまで、いっしょにいる!」

少女が、潰さない程度にぎゅっと鴉を抱きしめる。

「さあ、もうすぐお父さんも起きてくるわ。
 カラスさんは、こないだ空けた林檎の箱にタオルを敷いて、そこに住んでもらいましょう。
 朝食の棚にオートミールがあるから、カラスさんにあげなさいね」

「はぁーい」

少女が言いつけ通りにいそいそと準備して、腕の鴉を木箱にそっと移す。
鴉は少し足をばたつかせた後、タオルに体を埋めてこちらを向く。

鳥類の黒い瞳には、食卓の様子がはっきりと映っていた。
少女から差し出される餌と水の皿には目もくれず、鴉は家庭の有様をじっと見やる。

「――おはよう、二人とも」

「あ、おとうさんだ!」

「おはようございます、あなた。今日は朝から二人とも好きなシチューよ」

「二人? はは、君も好きじゃないか」

「あらそうね。ふふ、じゃあみんな大好きね」

「お皿、くばるね!」

「ありがとう。じゃあ、今度はパンも運んでくれる?」

「それなら僕が運ぶよ。今日は休日だからね、仕事よりも君たちが優先だ」

「あら、じゃあよろしくお願いするわ、あなた」

陽光が部屋を暖色に染め、不和なき安寧を鮮明に映し出す。
一切の不幸が存在しない、純粋無垢な幸福の体現。

その光を一身に受けても、鴉は飛び立つ事ができない。
情景から目を外す気力すら湧き上がらず、ただじいっと水晶体に受容させる。思考力すら、奪い去る。

つつがなく朝食を終えた少女は、救急箱を持ってすぐに鴉へと駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

言いながら、少女は脱力した鴉を抱き抱える。

「あれ……?」

そして、疑いが生まれた。

「さっきまで、おててにケガしてたよね?」

少女は、先まで流血していた翼に目をやり、首を捻る。
疑念に緩む少女の手に、機会を得た鴉はようやく我に返った。

鴉は翼を激しく動かし、少女の手から逃れて着地する。

「あっ!」

少女の驚きの声を振り払い、鴉は一心不乱に羽ばたいた。
未だ完治してはおらず、飛行に若干のふらつきはあるが、行動そのものに支障はない。

鴉は開かれた窓へと身を躍らせ、外へと離脱する。

少女が鴉の後を追い、窓に縋りつく。
そして、少女は鴉へと叫ぶ。

「飛べたんだねー! よかったー!」

怨嗟ではない。後悔ではない。
小動物を飼育する機会を逃した負の感情ではなく、生命があるべき姿を展開した事への正の感情を叫ばれる。

どこまでも、彼女とその家庭には、善良なものしか存在しない。
そこに、闇の一切は存在し得ない。

「…………」

いたのは、ただ光に虐げられた矮小な自分だけだった。

決して無い(Nevermore)

自分には、あのような家を得られる事はない。

鴉の姿は空間に溶ける。
空間迷彩。高度な法術が結実する。

そして見えざる黒の鴉は、誰にも知られず人間へと変じ始める。

羽毛は衣服に。
黒毛は白髪に。
嘴は針に。

あの少女に拾われる前、レイヴンは傷を負った。
「あの男」を狙う復讐者、梅喧という女によって、である。

その女から与えられた死傷は、極上の痛みであった。
そして久方ぶりに満足をした彼は、頃合いを見て逃亡した。その背に受ける罵倒すら甘美だった。

空間転移すらままならぬ痛みだったが、鴉へと変化する法術は行使できた。
路地裏で治癒を待つと共に余韻に浸っていると、あの少女が自分を見つける。

以後の展開については、前述の通りである。

今や身傷の癒えた彼であったが、それよりも深い心傷を負った。
その傷の形は絶望(Verzweifelt)

悲劇とは何故悲劇足り得るのか、それは喜劇が存在するが故である。
仮に悲劇のみが演じられるとすれば、それは「悲劇」という名は与えられず、単なる「劇」であるしかない。

絶望とは、ただ存在するだけではそれほど酷くはないのだ。
酷薄な環境に置かれようとも、そこに浸るだけでは「仕方ない」という諦念が救いになる。

だが、希望ををまざまざと見せつけられれば、絶望は絶望足り得る。

自分に差し伸ばされた手。
全てを包むが如き温かな家庭。
こちらから拒絶し、空へと逃げようとも、落胆すらせず安堵を紡ぐ無垢。

一体自分は何なのだ?
復讐者に殺意を抱かれ、幾度も斬られ殺されて、惨めに逃げて罵倒され、路地裏で燻っていた自分というのは、何だと言うのだ?

鳥にも劣る畜生である。受けた傷にすら喜びを覚える卑小な肉袋だ。
あの小娘に拾われなければ、このような思いをする事はなかった。苦痛をあるがままに享受する幸福しかなかった。

希望の光を前に、全ては反転した。
闇に微睡む存在にとって、光とは目を刺す劇物である。

家庭の希望。
全てを賭けて追い求めなければ得られぬ貴重な宝ですらなく、この世界の人間多くに満ち溢れる、ありふれた産物。

だが、自分は決して満たされる事はない。
この先、今まで生きてきた同じ時間を費やしたとしても、化け物は凡俗の産物すら得られないのだ。

レイヴンは、それに逃げた。
飛びながら、どうする事もできない焦燥に駆られて、技を叫ぶ。

「Schmerz Berg――!」

激情が、一本ではなく幾千本の針を呼びこんだ。
星空のような切っ先が彼を取り囲み、自滅する。


自分の意思を確認した時には、既に場は整っていた。

「これより、被告人、元第一連王カイ=キスクの裁判を始める」

元? その意味を問うよりも早く、ヴェールで顔を隠した裁判長が木槌を叩いた。

法廷は、現行のものとは大きく様相が違っていた。
傍聴席は、どちらかというとコロシアムの観客席と形容した方が早い。
被告人である自身を擁護するはずの弁護人はいない。いや、それどころかその役が座るべき席すら存在しない。

現実には存在しない法廷の中で、カイが真正面の法壇を見上げる。
古めかしい羊皮紙の巻物を解き、裁判長は年若い声で文章を辿った。

「被告人はGEARを国内に入れた。それは大いなる罪である。
 聖騎士団に所属していた頃より知人であったGEAR、ソル=バッドガイを度々召還し、GEARで造られた人造兵オーパスの配備を看過、果ては妻すらもGEARである。
 これは連王の座に就きながら国そのものに背く、外患誘致罪である」

裁判長の言葉に、堪らず抗議が口を突く。

「GEAR全てが害ある存在ではない!
 彼らは、彼女たちは――人間と同じ、意志があり、慈悲があり、愛情がある、共に生きる事のできる隣人だ!」

「罪人、口を開くな!」

未だ判決が下されていないというのに「罪人」と来た。
かつてあった魔女裁判とは、このようなものなのだろうか。

「では、これより証人を召喚する!」

現代の形式から大きく外れた進行の中で、魔法のように証人が何処(いずこ)から湧いて出た。

その証人の名前を、驚きのあまり声にする。

「レオ……!」

同じ聖騎士団出身、同じ連王の位、同じ志の、友にして朋。
外見こそ相違ないが、彼が語る言葉は総て違う。

「GEARは人類の敵だ」

抑揚のない、零度の声。
レオが決して紡ぐ事のない台詞に、カイが前のめりに否定した。

「違う! この証人も、その証言も偽物だ!」

否定に、偽のレオがなおも言い募る。

「お前も俺も聖騎士団の団員だ。ならば、GEARの害悪さなど身に沁みて覚えているだろう?」

「それは、ジャスティスによる命令で――!」

「ジャスティスはアリアだ。
 ソルの恋人で、かつては善良な女性だと聞くが、何故善人は人類を殲滅しようとした?
 GEARは人間を殺す道具としてデザインされた、破壊衝動を持つ生物兵器だ。
 GEARにされた者は全て、人類に牙を剥く危険物に成り下がる」

「ジャスティスが人類の殲滅を指示したのは、アリアさんがGEARになった事だけが原因ではないはずだ!」

木槌が響く。それと同時に、レオの姿が掻き消えた。
消滅と代替するように、新たな証人の姿が出現する。しかも、それは一人や二人ではない。

全て、見知った顔だった。
鎖鎌を下げた男がいた。髪のゆらめく女がいた。紙袋を被った男がいた。中華服の女がいた。
全員が全員、顔に何の表情も浮かべていなかった。

その全員が一個の生き物であるように、違う口から続く言葉が連なっていく。

「お前がGEARを守ろうとする理由を教えてやろう」

「GEARの女に恋慕したから」

「GEARの子供を成したから」

「お前自身が、GEARになっているから」

「自分たちが攻撃されないように、GEARを擁護しているんだ」

「お前がGEARを好かなければ、今でもGEARを殺していたんだろう?」

「全て、保身の為に過ぎない。かつて掲げた、正義の為ですらない」

「お前は、罪人だ」

その言葉は傍聴席にすら連鎖して、世界の全てがカイを責め立てた。

「証言は、以上だ」

裁判長が、顔を隠していたヴェールを上げる。
露わになった口で、偽装された真実を告げる為に。

「故に、有罪である」

裁判長の姿形が、ヴェールごと剥ぎ取られた。
そこにいたのは、聖騎士団団長として戦場に立っていた、かつての自分。

GEAR(化け物)を殺す事が正義だと信じていたお前が、今更何を守るというんだ?」


体は休んでいたというのに、動悸が激しい。
夢。自罰的な傾向にある彼にとって、あまり楽しい夢というのは見た事がない。

そういった悪夢を見ない為に、彼には決まりがあったのだが。

「……夜の紅茶は、一杯だけと決めていたのだが」

日が変わるまで積み重なった仕事をこなす為に、カイは気力を満たす紅茶を三杯口に入れた。
浅い眠りが夢を運び、こうして苦しむ事になる。

カイは心臓が収まるまでベッドの上で時を過ごし、落ち着いてから支度を始める。
仕事着に袖を通そうとして、手が惑った。

「休日か……」

多忙な連王の身である。常ならばカレンダーの休日すら潰す程であるが、今日は仕事の一切ない本当の休日だった。
そんな貴重な休み時だが、何とも幸先の悪い夢見である。

少し損をした気分になりながら、仕事着を戻して普段着に着替える。
カーテンを開ける。陽光を浴びれば、後ろ向きになっていた気分も前に転換していく。

硝子に映る自分の目は、エメラルドグリーンに光っている。

「…………」

目元を撫でる。

GEARの目の色は赤である。
赤と緑は対照色。連王として立つ己は、GEARとは関係ないかのように、清廉潔白に振る舞っている。
だが、既に気づいている。己の目の色が、時に赤へと変じている事に。

「私は……人間ではなくなっているのか?」

GEARへの嫌悪感はない。
だが、自分の(しゅ)が変じる事への忌避感が、不安を湧かせる。

かつての自分がGEARを殺していたのと違い、今の自分はGEARを愛している。
それは本当に自分の意思によるものなのか? GEARへと変じたが故に、保身の為の感情なのではないのか?

違う、と強く否定する。ディズィーを愛した瞬間の己は、間違いなくGEARに染まる前だったはずだ。

ならば――ディズィーと邂逅しなければ、自分は今でもGEARを敵と思っていたのか?
自分という性質が分からなくなり、カイが頭を振る。

悩みながらであろうが、自分は道を進んでいるはずだ。
国民も、聖戦の傷が癒えて、GEARと冷静に向き合える時代に来ている。
全ては希望へと向かっている。未だ障壁は大小数多そびえ立つが、神は乗り越えられぬ試練を与える事はない。

努めて楽観的に物事を判じ、カイは自室の扉を開いた。
廊下を通り、妻を秘匿している小さな扉に手をかけると、その横にいた衛兵のソードマンが声をかける。

「ああ、カイ様。お伝えしたい事が」

「何だ?」

「ディズィー様は、先程シン様に連れられてバーガー屋へと行きました。
 シン様は、カイ様の所にも寄ったそうですが、寝ていたとの事なので……」

「そうか。……何分(なにぶん)、十一時になるまで寝ていたからな」

「それは……珍しい事でありますね」

「ああ。そうだな――」

予定を折られたカイは、少し思案した後、ソードマンに行き先を告げる。

「少し、旧礼拝堂に行ってくる」

「……承知しました」

若干の沈黙、それは上の者を諌めるべきかという逡巡。

旧礼拝堂、というのは、つまり新しい礼拝堂が別にあるという事である。
ではなぜ旧くなったかと言えば、バプテスマ13事件が由来にある。

ヴィズエル軍によるイリュリア城の襲撃により、城の一部が破壊された。その内の一つが礼拝堂であった。
城の主要な箇所は既に修復されていたが、軍事的及び政治的には重要度の低い箇所は後回しにされていた。
その間に、修復するよりも新規に建てる方が早いという事で、別の礼拝堂が新たに建てられたのだ。

現在も旧礼拝堂には瓦礫が散らばっている等の不備があり、立ち入る者は限られている。
壁の倒壊の心配はないとの事であるが、万が一という事に心配するのも部下の情である。

しかし、立ち入る者がいないという事で、第三者の介入なく黙想するにはうってつけの場所であった。
カイは豪奢な廊下を抜け、補修の跡の目立つ通路から旧礼拝堂へと辿り着く。

軸の外れた扉を開けて、岩の匂いのする空間に一人佇む。

天井には、聖母マリアを模ったステンドグラス。
壁には、傾いた鏡と歪んだ窓。
床には、壁から欠けて落ちた灰色の煉瓦や、割れた窓ガラスが混在し、かつての事件の不穏さを残していた。

足元の障害物を避けながら、礼拝堂の最奥にある木壇に近づく。
木壇の上には、儀礼用の長剣が二振り置かれている。
その銀の輝きを前に、まずカイが目蓋を合わせ、手を合わせる。

「神よ……私は、少なくとも一つの間違いを犯しています」

かつてGEARを殺した事、今はGEARを守る事。そのいずれか。
神への懺悔とも、己への自戒とも取れる言葉。

「罰を与うならば、私が一身に受けましょう。どうか、皆には深き慈悲を願います」

自己犠牲を説き、しばし沈黙に身を委ねる。
ステンドグラスに濾された虹色の光が、カイの身体を滑った。

胸中で満ちたカイは、目を開け、手を崩す。
祈祷を終え、彼は次なる鎮静の手段を求めた。
右手に長剣の一振りを握り、左右に開けた空間に行くと、虚空に向かって構える。

「――ッ!」

一呼吸の動作で、一閃が流れる。
剣術。かつての生業であり、今では離れた荒事である。

刃の閃きを重ねるごとに、若き頃より振るってきた馴染みの感触に心が落ち着く。
だが、同時に苦笑が浮かんだ。

「……流石に、ペンだけを手にしていると、腕が鈍るな」

速さも、重さも、足りていない。
美貌を以て未だに「若い」と言われてはいるが、その身に年月は積まれている。

「はあっ!」

裂帛の声と共に、剣が舞う。
銀が煌くその刹那、頭上から涼やかな異音が鳴った。

「――ッ!?」

見上げる。
天井のステンドグラスは割れ、その亀裂の中心部には落下する塊があった。
落下してきたものが、物ではなく者だと、鷹の目が見抜く。

「何者だ!?」

誰何の声を上げながら、駆け寄る。
敵対者である可能性は高いが、もし無辜の者であるのならば、応急処置と救護の要請が必要だ。

だが、落ちてきたのは、前者だった。

「お前は――!」

目の前の人物を知るカイとは正反対に、

「……お前は、誰だ?」

彼は、目の前の人物(カイ)を知らないと発言した。
その無知自体に、カイが驚く。

自分の事を知らないはずがない。
かつて己と切り結び、敵対し、そして一時的に自身の友と共闘した存在。

レイヴン。その人だった。
彼は、カイの手にある長剣を見ると、その鋭さに飛び退いた。

「敵か!」

短絡的に判断し、レイヴンが周囲を見渡す。
武器となる長剣が木壇の上にある事を知ると、カイへの警戒を払いながら長剣を手にした。

「祖国に仇名す敵の牙城か……! お前がオレをここに連れてきたのか!」

混乱状態の新兵を思わせる素振りに、カイが戸惑う。
認識にある限り、レイヴンという人物の振る舞いからかけ離れている。本来の彼なれば、より冷静に事を分析できるはずだ。

「答えろ!」

叫びながら、レイヴンがカイへと斬りかかった。
困惑という渦に脚を取られていたカイは、その斬撃の対応にやや遅れた。

自身の長剣でレイヴンの長剣を斬って流し、互いに声を上げる。

「くっ……!」

斬撃の重さに喘ぐカイ。

「……っ、お前も手練れかッ! 」

自身の攻撃を流された事に憤慨するレイヴン。

カイは後ろに跳躍し、長剣を下げて制止した。

「待てっ、様子がおかしい! 何があった!」

「敵に心配をする貴様の方がおかしいだろう!」

レイヴンは聞く耳も持たず、直進する。
やるしかない。カイは染みついた剣技を瞬時に想起し、長剣を振り上げる。

幸いというべきか、相手は不死身の男である。手加減はいらない。
カイは足を踏みこみ、腕を走らせ、長剣でレイヴンの首を狙う。

「――っ!」

レイヴンはすぐさま後ろに跳んだ。
それは過剰なまでの後退だった。勢い余ってたたらを踏み、一度転倒する。

「ぐっ!」

それでも素早く立ち上がり、長剣を再度構えた。
その刃先は、震えていた。

彼の様子を見て、カイは確信する。

自分の目の前にいるのは、戦死を恐れる新兵だ。
死を望み、痛みを歓迎する、本来の彼とは違う。

「があああああっ!」

それでも、レイヴンは自分を奮い立たせて剣を振る。
カイは最低限の動作でそれを避け――ようとし、見誤って脚にかすった。

「ちっ!」

だが、支障ない。
血の赤を意識外に追い出し、カイはカウンターとして刃を繰り出した。
狙うは先と違わず、首の両断。

そして数瞬。

「ぎイっ!」

レイヴンの悲鳴と共に、彼の左側頭部が切り離される。
手に返ってくるのは、肉と骨と、細い金属を断った感触。
狙いとは違うが、これで戦意ごと削がれてはくれないか。

カイが一抹期待し、彼の様子を見つめた。

「あっ……ああッ……!」

レイヴンは、自分の頭にあるべきものが存在しない事を、自分の手で確認する。
血に濡れていく体を見ながら、彼は大きく悲嘆した。

「ない……!? オレは、死ぬのか……!? (いや)……!」

錯乱し、死に震えているレイヴン。

「オレは……死んでたはずだ。敵に囲まれて……腹を剣に貫かれて……だが、今は違う……それでもこうして斬られても、生きて……? 何故だ……?」

しかし、頭部が再生していくと、段階的に冷静さを取り戻していく。
流血が止まり、状況を飲みこもうと黙りこむレイヴンに、カイが疑惑を投げこんだ。

「もしかして、記憶喪失を起こしているのか?」

「黙れっ!」

確かに記憶があやふやだ。だが、それを敵に指摘されるのは不快だ。
そういった苛立ちを含めて反抗し、レイヴンが剣を握り直す。

「何があろうと、お前はオレを殺した!
 お前は敵だ! 許すワケがない!」

再度、レイヴンが迫る。
今度は蛮勇と言える猛烈さだった。
死への恐れが、不死への疑惑によって薄れている。

先程よりも迷いと恐れのブレがない、死線を一、二度くぐり抜けた太刀筋。

「ッ!」

カイは息を吐き、刃を刃で受け、あるいは身を横に反らして躱す。

「だが……っ!」

体が、戦闘を思い起こしている。
脳裏に浮かぶのは、かつて聖騎士団で受けた訓練。
剣と剣とを打ち合い、互いに高め合う実践訓練。
違う所と言えば、これは模擬刀などではない事か。

「――隙あり!」

相手の大振りを見切り、終了を告げる突きを繰り出す。
これは訓練ではない。相手の眼前で止まる事はなく、刃が頭部を貫通する。

「ァ――ア゛……!」

痙攣するレイヴンをよそに、

「――ッ!?」

カイが、彼から漏出した真実に身震いする。
貫通した頭部から、刃と肉の合間を縫って幾本もの針が流れ出す。

そもそも、彼の頭部には元から大きな針が一本刺さっている。
だが、脳にこのような針が無数も潜りこんでいたのか?

硬直するカイだったが、痙攣を止めたレイヴンがつぶやく。

「思い出した……」

ずぷ、と水の音を立てながら、レイヴンが後退する。
剣が肉の鞘から抜かれ、再生が始まった。

「ここを通せ」

ようやく、彼らしい不敵な笑みが浮かんだ。
カイは首を振り、刃に纏わりついた血を振って拭う。

「……事情もなく、通す訳にはいかない」

「先も見ただろう、俺は死なない。
 死なない人間を殺そうとしても、疲れるだけだ」

そう宣い、レイヴンが刃を向けた。

「はあっ!」

刃と刃が混じり合い、火花が散る。

既に刃から、死の恐怖はない。
厄介ではあるが、こちらから剣を向けた際には回避を行っている。

疑問を確信に変えるべく、剣を交えながらカイが問答を仕掛ける。

「痛みはどうした!?」

「痛み? そんなもの、受けるだけ損だ!」

レイヴンが薙ぎ払い、わずかな風圧を受けながらカイが退く。

現状のレイヴンは、苦痛を損と捉えている。
成程。ならば、まだ完全には思い出していない訳だ。

それは自身とて同じ事であった。本来の実力、聖騎士団団長として立っていた頃にまだ追いついていない。

対して、向こうは不死者である。
脳を切り離される都度、確実に何かを思い出し、その刃に不死の驕りを乗せてくる。
死ねば最後の己とは違う。こちらに明らかな不利を押し付けてくる。

秘密裡に、救援信号を法術で送る。このまま逃げる手もあるが、逃げた先に一般人がいたら巻きこむ事になる。

足を礼拝堂に止め、ここで戦う事が、一番犠牲の少ない選択だ。

……それが、本当に良い選択なのか?

「はあっ!」

頭に過ぎた思いを払うように、カイが剣で弧を描く。

自分は久方ぶりの戦いに、高揚しているのではないか?
何かの為に戦うのではなく、戦う為に戦っているのではないのか?

無意識に、カイは礼拝堂の鏡に背を向けた。もしそこを覗いてしまえば、赤い目のした己を視界に入れてしまうかもしれなかった。

否が応にも、カイの腕前が上がっていく。そうでなければ、自分は死の奈落に吸いこまれる。

「カアッ!」

鳴き声のような掛け声と共に、レイヴンが急進する。

「今だ!」

その攻撃動作そのものを隙と見て、カイが剣を下から上へと逆袈裟に斬り上げた。

「!」

声は、出るはずもなかった。
喉から上が切り捨てられ、レイヴンの体が床に崩れる。

「…………」

カイは、自分が息を止めていたのに気づく。
呼吸をする。息が荒い。アドレナリンが自分の体を無視していた。

限界ではない。むしろこれ以上の域まで行ける。
剣を構え直し、レイヴンの再生を待つ。

首から上が生えるように再生し、カイの予見通りに彼は立ち上がった。

「――全て思い出した。
 ああ、そうだ。私はイリュリア城の上空で墜落した」

頭全てが真新しくなり、レイヴンは記憶の全てを取り戻した。
ようやく本来の彼を目の前にし、カイが説く。

「今ここで、戦う必要はないはずだ」

「ああ、そうだ。必要はない」

言葉とは裏腹に、レイヴンは長剣を手放さない。

「だが、私の興が乗った」

「……私は、争いは望まない」

「どうかなぁ?」

挑発的に首を曲げると、レイヴンが笑いかける。

「貴様の興も乗っていたのだろう?
 現に、お前の顔には――未練がましさが貼りついている」

「ッ!」

反射的に、鏡の方へ顔を向けた。
刹那、接近する気配を感知し、脊髄の信号のままに剣を真横に構えた。

ギン、と鈍い金属音が響き、風の法力の纏った長剣が空間を裂いた。

「……本気でやる、という訳か」

「私とて、昔は軍で剣を振るう身だった。
 同じ剣士ならば――私の千歳(せんざい)を埋めてみろ!」

吠えながら、レイヴンが斬撃を繰り出す。
一閃ずつに風の法力が乗った攻撃は、床にすらそのダメージを行き渡らせていた。

カイも同じく、雷を纏って刃を輝かせる。
法術。これを駆使しての戦は、殊更聖戦当時を思い出させた。

「行け!」

地面を這う雷撃を予め読み、風と共にレイヴンが飛ぶ。
雷撃の一部はレイヴンの足を食らい、彼の口から嬌声が漏れた。

「ああ! 重畳、重畳じゃぁないか!
 貴様の狂気を見せてみろ! 『第一連王』! 『聖騎士団団長』! カイ=キスク!」

「『死体漁りの烏』! 『不死の病』! レイヴン!」

互いに、互いの名を、互いへの敵意と敬意でもって共鳴する。
荒廃した礼拝堂は、風と雷に舐められ更なる荒地へと変じていく。

雷は幾度も彼の外套を(かす)める。
風は何度も彼の後髪を(たわ)める。

斬撃。
交錯。
回避。
閃光。

その戦いそのものが、刃を鍛える鎚のように、カイの腕を元に戻していく。
感覚が取り戻されていく。

戦場に立つという事。
そこに、命の価値は問われない。
最後まで立ち続け、敵を殺す事を至上とする白黒の空間だ。

生き延びるには、殺すしかない。
GEARの首魁を上げれば喝采された。
GEARがどのような姿であれ殺した。
見るもの全てを竦ませる竜の姿であろうと、物怖じせずに殺した。
見目麗しい美女の姿であろうと、何の逡巡もせずに殺した。
小さな鼠のようでも殺した。空に浮かんでいれば飛んで殺した。逃げていれば追いかけて殺した。
GEARは一匹で無力な十人を殺す。自分が生きるのみならず、世界の人々が生きる為であれば、GEARは全て殺さなければいけない。

目の前で死んでいった同胞を何度見ただろうか。
彼らの希望を潰えさせてはならない。
生きなければならない。生きて、殺さなければならない。

自分は生きなければならない。
彼らの骨を、墓を、死を背負っている。
自分が歩んできた道は、たった数十年であろうとも、それは幾十人もの生を継ぎ接ぎした、千年に匹敵する。

「――――」

口が真一文字に閉じられる。
感情の一切が、喉の奥底に飲みこまれた。

今自分が行うべきは、目の前の敵を確実に殺す事。
静かな熱が沸き上がり、殺害のビジョンの一つ一つを精査する。

そして、カイの長剣が大きく空を斬った時、レイヴンはその間隙を過たず突いた。

「――脆い!」

歓喜の声と共に、レイヴンの長剣がカイの心臓に迫る。

長剣にまとわせた雷撃は、礼拝堂の壁を崩すだけで潰えた。
完全に、長剣を振り終わった後である。これからレイヴンの刃を払おうとしても、人間の速度では追いつけるはずがない。

舌なめずりと共に、レイヴンの刃はカイの皮膚に達し――、

「――――」

言うならば、煮えたぎる凪の湖面。
カイの心臓は獲物を捕らえた狩り人のように跳ね、しかし送り出す血は鉛のように冷たい。

常人であれば、致命的なまでの間隙。
今までの人間業の剣技であれば、跳ね退ける事のできない空白。

故にこれより行うは、化け物の所業。

そもそも、自分は化け物を相手に殺してきたのだ。
化け物を殺すなら、自らも化け物にならなければならない。

カイが先頃放った雷撃と同時に、罠たる肉体加速の法術を仕込ませていた。
雷撃をデコイとし、隠されていた法術が始動する。

右腕が、神速の域に達する。
仕様外の右腕の速度を出すべく、肘の関節が磨り潰れ、可動部分から大きく外れ、骨が砕け、筋繊維が断裂する。

どうしようもない間隙を餌にして、肉体を消費に命を屠る、対化け物(GEAR)の外法。

自らの肉体を厭わぬ、過剰なる加速がレイヴンの長剣に食らいついた。

「――!」

それだけでは終わらない。
レイヴンの手から長剣を離させると共に、神速の勢いを全く減衰させず、
長剣は有り得ない奇怪な軌跡を描いて、彼の首を、腕を、胴を、脚を、全く同時に断つ。

再生力がどれだけある化け物であろうとも、この損傷は時間がかかる。
そういった事を、かつてのカイは熟知していた。

「……はあっ! くっ、痛ッ……!」

慣れから遮断していた痛覚が戻り、カイが左腕で右腕を抱える。
右腕には、関節が二つほど増えていた。折れた骨が皮膚を突き破り、表皮は鬱血の青黒さを浮かべていた。

次弾に備え、左手から治癒の光を生じる。
右腕が治るのが早いか、あるいはレイヴンが動くのが早いか――。

と。
レイヴンの肉が、頭と首が接合した瞬間。
脚も手も再生するよりも前に、彼が哄笑する。

「……っく、は、ははっ――はははは!
 見ろ! 貴様もまた私と同じ化け物だ!
 数多の人間に支持されようとも、結局は私と同じに過ぎない!」

カイが鏡を見る。
瞳が、赤い。

「……あるいは、そうかもしれない」

諦めを混ぜて、薄く同意する。
自身と同じ化け物を、多くの人々から認められる人物の中に見出したレイヴンは、己と彼とを一緒くたに嘲笑した。

「そうだ。我々は結局、安寧に微睡む事のできない闇の身だ。
 俗人が手にする幸福では満ちる事ができず、戦地と苦痛にのみ価値を見出す狂気に他ならない」

結局は、自身も刃を交える事に心地よさを感じていた。
カイは血まみれの長剣を床に刺し、改悛に目を強く閉じる。

……己も、化け物である。

刃を研ぎ、技を磨き、部下から支援を受け、三日三晩を費やしてでもGEARを殺した。
例え今、人々から賞賛を得て、GEARを救おうと手を伸ばそうが、この手は外法を余りに知り過ぎている。

神を遠くに感じる中、不意に訪れた福音に目が開く。

「――大丈夫ですか!?」

「無事か、カイ!?」

扉が大きく開かれ、二人の影が礼拝堂に闖入した。

「――ディズィー!? シン!?」

カイが声を上げると、すぐにディズィーが彼の状態を理解した。

「……何て酷い怪我……!」

彼女はカイに駆け寄ると、すぐに治癒を唱えて専念する。

シンはカイとレイヴンとの間に入り、仁王立ちで敵対者となった男を睨みつけた。

「やけに法力の臭いがして、ヤな予感して戻ったんだ。
 ――おい、おっさん! お前、味方じゃなかったのかよ!」

非難するシンだったが、レイヴンの目はカイに向かっていた。
彼のオッド・アイは、嘲りから戸惑いへと変わっていた。

同族故に、カイはその目を理解する。

「……化け物の身であろうと、狂気だけで生きる事はできないはずだ」

左手を、受け入れるように差し伸べる。
数メートルの距離故に、届く事はない。しかし、レイヴンは後ずさった。

「私にも、こうして駆け寄ってくれる二人がいる。
 私は、何よりも愛する存在がいる。それだけで、この先千年だろうと生きていける」

二人の光が、曇った目を拭ってくれた。
そう。ディズィーとシンがいる。だからこそ、自分は狂気に落ちずとも良いのだと、安堵できる。

太陽が傾き、カイの背後に後光が差し始めた。

レイヴンは、途端に顔を歪ませて、渋く反論する。

「――だが、永遠に理解し合えると約束された訳ではない」

「完全な理解はできない。歩み寄る事で人は支え合える」

「人? 可笑しい事を言う、人間がこの場に誰がいる!」

「ここに立つ者は全て人間だ! それはお前も例外じゃない!」

レイヴンの感情が一切消え失せる。

「……ああ、そうか。分かり切っていた事だ。単に、私が大きな勘違いをしていただけだ。
 結局はお前も、光に立つ事のできる存在だ。私とは、違う」

レイヴンは同族であった男を切除しようとして、それでもカイは一歩を踏み出した。

彼が己を侮辱した事への怒りではない。
憐憫。何を話しかけようとも脅える子供に向けるが如き、慈悲の緑青。

「違う事はない! 貴方にも、私と同じものを持つ腕があるはずだ!
 人と理解する事ができる言葉を、人と共感する事ができる感覚を、まだ貴方は持っている!」

その指摘。
持てる者の、傲慢な指示。

それはどのような器具よりも痛く耳を貫き、結局自分は劣った存在だと再認識させる拷問。
反論、反駁、反感、反逆は湧いて出る。それでもその全てをもってしても、己が抱く不平をそのまま受け止められる事はないだろう。

レイヴンは空っぽのまま直立した。
法術を紡ぐ。戦闘の為ではない。離脱の為だ。

「……連王。お前にはもう少し期待していた」

「待て! まだ話が――!」

「もういい」

心底うんざりとして、レイヴンが空間の狭間に消える。


結局は、そうなのだ。

自分を理解できると、自分でも理解できると、
そうと近づいたとしても、その細部が違うと知って、勝手に傷を作るのだ。

見えざる鴉は飛び上がる。
太陽を運ぶ事のない鳥は、その光に焼かれたように虚空へ掻き消えた。