緑と青の空間に亀裂が走り、そのひび割れから人間が漏出する。
「やったー! 空気が美味しいー!」
そうはしゃぐ美女の隣で、男が髪を掻く。
「……大声を出すな。もしこの場を見られていたらどうする」
苦々しい注意に、美女は頬を膨らませた。
「分かってるよ、もうっ」
子供のように感情を振り回し、不満を吐いて息を吸った直後から笑顔に変転する。
彼女はジャック・オー。簡易に言えば、二重人格。
天使に例えても相違ない美貌と、それを殊更強調せしめる頂辺の光輪。
平地の白にある彼女に対して、男は沼底の黒だった。
顔を好奇から遮る頭巾に、風切羽を模った外套。その様相は鴉。
故に、彼の名はレイヴン。白髪と白肌を露悪の黒で隠した、時の女神の伴侶である。
レイヴンは顔をしかめ、事の次第を反芻する。
「元の世界に行きたい!」
拳を握りしめ、ジャック・オーが鼻息荒くレイヴンを見上げた。
彼らが拠点としているのは、「バックヤード」である。
世界を世界たらしめる演算領域。情報の蜜が蔓延する空間。
その中に作られた居住空間に、二人は存在していた。
「バックヤード」は深淵にして広大である。
しかし、その情報密度は生命体にとって毒であり、無毒化するに広範囲を滅却するコストは過大。
故に、限られた体積のみに住まうしかない。それが、彼女への不満を積載させた。
「遊びたいー! レイヴンとかサーヴァントたちとチェスと将棋と囲碁とカタンとモノポリーとダンジョンズ&ドラゴンズするの飽きたー!」
嘆く彼女が今の今まで遊んでいたのは、一番最後のゲームである。
レイヴンが手の平のミニチュアをしばし掌で転がした後、大きくため息を吐いた。
「私としても、シナリオを作らずに済むのはありがたいが……」
言って、レイヴンはジャック・オーを見下ろす。
「だからと言って、地上に出るのはリスクが大きい。
お前はこの危機において、重要な役者の一人。仮に『慈悲なき啓示』がお前の存在と本質を嗅ぎつければ、すぐにでも破壊を謀るだろう」
「でもでもでも!」
ジャック・オーは首を振り、真摯に説きつける。
「私は! 地上の人たちに触れてみたいの!
私に、『アリア』に、今のこの時を、今生きているものを見たくて見せたいの!」
その瞳に、確たる意思がハイライトとして差す。
駄々ではない。切々である。
胸襟を開いたジャック・オー。
レイヴンはそれを受け入れ、無言で頷いた。
「――とにかく、人目は引きつけてくれるな。無用な騒ぎになる」
「はーい!」
ジャック・オーが元気よく返して、二人は街までの道を行く。
露出した土を踏み、彼女は楽観的に感想を述べた。
「たまにはこうやって、自分の足で思いっきり歩くのもいいよねー」
目的までの空白期間すら、彼女はそうして楽しんでみせる。
「羨ましいものだ」
腕ほどの距離を許した相手に、心情を返す。
風が攫う小さな声であったが、ジャック・オーには届いていた。
「羨ましい貴方が羨ましいわね」
循環する羨慕に、レイヴンが首を傾ける。
しかし、彼女が言葉を繋げる前後で特に空気が変わった事もなく、単なる言葉遊びだと彼は流した。
「着くぞ」
路傍の青が湖面として揺れる中、煉瓦の浜辺が足裏を支える。
街と草原の境界は明瞭だった。石のアーチになった門には、地名が筆記体で埋められている。
首都ほど栄えてはいないが、近隣の村々と比べれば都会と言える街である。
入口に佇む時点で、空間の奥から子供の囀りが聞こえてきた。
「ほー」
口を丸く開けてジャック・オーが観察し、「よしっ」と奮起した。
「レイヴン! あっちの方に行こ!」
外套をぐいぐいと引っ張り、「あっち」を明示させる。
「…………」
レイヴンは不承不承ながらもジャック・オーの足に合わせ、小走りの彼女の後ろを追行した。
ジャック・オーの目は輝いていた。路面のありふれた店や家が映っているからだ。
「煉瓦造りの家っていいよね? 私、『バックヤード』も煉瓦造りだったらもっと素敵だと思う!」
「煉瓦の家で防げるのは童話の狼だけだ。情報密度で圧潰するぞ」
「んもー、ロマンがないなー」
と言った所で、ジャック・オーは気づいたように手を打った。
「そっか! レイヴンって昔の人だもんね! その時代なら、普通に見えるかもしれない!
私の時代のアメリカだと、家は大体コンクリートだったし。だから今、煉瓦造りの家見るとあったかそうだなーって思うの」
「今では工業製品のコンクリートで造られる事は無いだろう。必然的に煉瓦や石造になるだろうな」
「あ、お菓子屋さんだ! 前通るだけで甘い匂いするよねー。
ホラホラ、聖皇も食べたモンブランだって! 美味しそうじゃない?」
「……私に味の共感を求めるのか、お前は」
はしゃぐジャック・オー、合いの手のレイヴン。
二人は表通りをぐるりと回った後、裏通りにある露天のコーヒー・ハウスに行き着いた。
「つかれたー!」
「歩くたびに大袈裟に反応するからだろう。私はそれほど疲れてはいない」
テーブルの上には、二つのティーカップとサンドイッチ、ダージリンのおまけのクッキー。
向かい合って座り、レイヴンは自分の右手にあるティーカップを揺らす。
クッキーをつまみ、口に含んだ後に琥珀の雫を口に含ませた。
「おいしい?」
「一般的な味だ。情動を起こすものじゃぁない」
二度と味わい得ない過去を回顧し、レイヴンが苦笑する。
ジャック・オーもつられてクッキーを口に運び、何故か怒るふりをした。
「美味しいじゃん! さては美味しくないと言って、独り占めする気でしょ!」
相手がするはずもない事を邪推する、他愛ない冗談。
レイヴンは少しだけ頬を崩し、たちまち戻る。
「サンドイッチも頼んでるし、炭水化物でお腹膨れちゃうよ?」
ジャック・オーもまた、サンドイッチを手に取った。
彼が注文したものであるが、手に取った事を咎められない事で、無言の許可を得る。
「膨れさせる為に頼んだものだからな。急事に空腹では気が散る」
レイヴンはサンドイッチを噛み、チーズの脂とトマトの酸を紅茶で流しこむ。
その様をじっとジャック・オーが眺め、彼は居心地の悪さを覚えた。
「面白いものでもあるのか?」
「面白いもん! いつものレイヴンだったら、腹満たせればどうでもいいと思ってモグラでも食べそうだし」
「街中では自然に振る舞うのが一番だ。
金は減るが、人間が食べるものを口にして奇異な目を向けるのは、一人を除いて存在しない」
実際に、二人の姿は街に溶けこんでいた。
カモフラージュの法術による所もあるだろうが、頭に大針を光輪を頂く男女にしては、注視の気配はない。
露天から望む時計台が、十三時を指した時。
「――あ!」
「今度はどうした」
ジャック・オーの視線の先を辿ると、寂びれた店が終点にある。
「懐かしいなぁ、プレイステーションが飾ってあるよ!」
彼女は紅茶を飲み干して、一瞬で元気を取り戻す。
レイヴンもまた、残り少ないサンドイッチとクッキーを胃に入れ、支払いを済ませて後を追った。
追いついた時には、ジャック・オーは件の店の中を探訪していた。
どうやら骨董屋であるらしい。2000年代前後の電子機器が主に飾られており、その用途を果たせずに鎮座している。
使用を禁じられた、紛れもないブラックテックであるが、電源コードの接続部分がいずれも埋められていた。「観賞用」という名目を得る為だろう。
「流石に遊べないね。ちょっとがっかり」
しかし、アリアであった時代との所縁を感じ、ジャック・オーが感慨に耽る。
「おや、お嬢さん。電子ゲーム機に興味を示すとは、渋い趣味をしてるねぇ」
電子機器の林の奥から、好々爺といった面持ちの老人が来る。
「シブい? ナウなヤングにはバカウケだったわよ?」
「はっはっは。百年前にはな。
ワシも実物で遊んでみたいものだが、お上さんから雷が落ちてしまうからなぁ」
光る画面と一度も向き合った事のない老人が、しみじみと歯痒さを表現する。
「一つくらい遊べるものがあってもいいのに……あ!」
と、ジャック・オーが何かを発見する。
歩を進め、その商品を眼前にして、遠目で曖昧であった存在の名称を確定させた。
「マジックだ!」
「マジック?」
手品の道具でもあったのかとレイヴンが覗いてみると、商品棚にあったのはトランプのような紙の束。
「おじさん、手に取ってもいいの?」
「ははは。いいとも。ワシにはあまり分からないものだ。
マジック・ザ・ギャザリング、という名称は分かるのだが……ちょっと遊び方が、見当がつかないんだ」
「もう。この店の中で唯一遊べるモノなのに。もったいないなぁ」
言いながら、ジャック・オーが束を丸ごと手に取る。
「ソレを勿体ないと言うって事は、ワシよりもずっと価値の分かるお嬢さんのようだな。
なら、ソレを持って行ってもいいとも。ここで埃を被るより、ずっと有益だ」
「え!? おじさん、ホントにいいの!?」
「マジック」を胸に抱え、ジャック・オーが驚く。
「いいっていいって。そもそも、元はゴミ捨て場に捨てられてたモノを拾ったもんじゃ。……ああ、この入手ルートはご内密にしとくれよ」
「ゴミ捨て場に捨てられてた、って――」
ジャック・オーがカードをめくる。
表面に書かれた、黒い蓮のカードを見て、彼女は更に声を上げた。
「ホントにもったいないじゃん! 引き取っちゃうよ? ホントに持ってくよ?」
「美女に免じてサービスだよ。ささ、持ってけ持ってけ」
再度老人が許可し、これ以上の確認は無礼だとしたジャック・オーは、深く頭を下げた。
「じゃあ、ありがたくいただいちゃうね! またココに来る時は、札束風呂持って来ちゃうから!」
「おうおう。また来とくれよ」
ジャック・オーとレイヴンが店を出て、一番に口を開いたのはレイヴンの方だった。
「そのカードは何だ? 表を見た瞬間に血相を変えたようだったが」
「このカード自体は、さっきの通りマジック・ザ・ギャザリングって言うの。
昔、少しやっててね。カードを好きに組み合わせて遊ぶゲームよ」
アリアの頃に戻り、ジャック・オーが懐古する。
「大筋で言えば、二人のプレイヤーで戦い合うゲーム。
プレイヤーはクリーチャーを召喚して、相手を倒す事を目指す。私や貴方が、サーヴァントを召喚するようにね」
ジャック・オーは一枚のカードをレイヴンに提示する。
先程も彼女が見ていた、黒い蓮のカード。

「《Black Lotus》。これはマジックの中でも一番の高値がついたカード。まさに高嶺の花ってトコね。
ねぇ、コレ一枚でどれくらいになったと思う?」
唐突に問題を出され、当てるつもりもなくレイヴンが数値を出す。
「100ドルくらいか?」
「ううん、87,000ドル」
ジャック・オーの提示した数値は、彼の想定を凌駕した。
レイヴンは眉をいささか驚かせ、その理由が明かされるのを待つ。
ジャック・オーは高額紙幣に等しい紙を、満遍なく見せる為にくるくると回した。
「しかも、コレは一般に販売された量産品。それで、その価格なの。
原画にもなると、750,000ドルの値がついたわ」
改めて、レイヴンがカードの図柄に目を注ぐ。
イラストは、確かに美しくはあるだろう。しかし千年の内に、美術品はその年以上に鑑賞した経験がある。
門外漢なりに培ってきた鑑識眼。目の前のイラストには美術的技巧の観点に立つに、それほどの価値が付与される道理がない。
故に、価値はそれ以外の要素により決定される。
「何が要因だ?」
過程を省略した問いに、僅かな時間だけ彼と歩んできたジャック・オーは、意図を読み取る。
「結論から言えば、強いから。そして、珍しいから」
ジャック・オーはイラストの下にある効果文を指す。
――(T),Black Lotusを生け贄に捧げる:好きな色1色のマナ3点を加える。
「さっきも言ったけど、マジックは私たちがサーヴァントを召喚するのと同じようなゲーム。
貴方がサーヴァントを召喚する時には、マナが必要でしょう? それも、同じ。
《Black Lotus》は、自分を犠牲にマナを生み出す事のできるカードなの。
普通は、三つのマナを生み出すには三ターンが必要になる。けどこのカードがあるだけで、その三ターンのアドバンテージを一時的に生み出せちゃう。
そんなに強いのに、元手がいらない。だからすごく強い。
初めの手札にこれがあれば、三ターン後に出せるはずの場違いなカードを出せるもの」
説明に、納得が行く。
時は金なり。その時を相手よりも先行して得る事ができるならば、確かに強い。
強いのであれば、プレイヤーからの需要も高いだろう。
需要があるものはその価値が高くなる。更に価値が高くなる因子と言えば――。
「先程、珍しいと言ったな。
供給が乏しいなら、それ以上に高騰する。そういう事か?」
「乏しいどころじゃないの!
これは最初期のパックに入れられて以来、一度も紙として発行されなかったわ。
つまり、現実世界に存在するのは、そのパックの分だけしかないの。プレイヤーは何万人といるのに、カードは最初の数百枚しかない」
「その上、汚損や紛失で経時的に現存数が減少する。
だが何故、それだけ需要のあるカードは発行されないのか? 販売者にとっても、需要がある以上は高く売れるだろう」
もっともな問いに、ジャック・オーは「待ってました」と言わんばかりに胸を張った。
「『再録禁止』に指定されているからよ。
《Black Lotus》を始め、初期に発行された強力なカード――つまり資産価値のあるカードは、再録すればその価値が下がるわ。供給が増えるからね。
そうなるとどうなるか? そのカードを保有するプレイヤーや、カードの売買で生計を立てているカードショップの資産が減るという事になる。
カードショップにとっては、『マジックのカードは急に価値が下がる可能性がある』と見る。
カードショップはマジックの買い控えをしたり、販売会社を訴えたりする可能性が出てくる。
そういうわけで、エルドラージが勝つのよ」
「結論については何も突っ込まないが、理由は分かった」
数分前まで、ただの紙一枚としてしか映らなかったものは、語る意味のある深みとして見れた。
「まぁ、良い話の種だな。私としては、カードの類いに良い思い出はないが」
「ふっふっふー。まだまだ話の種にできちゃうわよ?」
「それならいいが、立ち話で済ませられるか?」
レイヴンの指摘に、ジャック・オーが我に返った。
「済みません!」
先頃のコーヒー・ハウスに戻り、テーブルにはカップの他にカードが並んでいた。
ジャック・オーは熱心にカードをめくり、その中から一枚を拾い上げる。
「これなんかどう? 《神の怒り/Wrath of God》!」

「それがどうした?」
「マブい感じしない? ねぇ?」
強く共感を求めるジャック・オーに、レイヴンはじっとカードを見る。
「……確かに、イラストは良いかもしれないな」
「イラストもイイけど、テキストもいいの!」
――すべてのクリーチャーを破壊する。それらは再生できない。
短い文であり、読み切るのは一瞬だ。
しかし、その良さまでは読み切れず、レイヴンの顔が硬くなる。
「私は、ゲームの内容を完全には理解していない。ゲームに由来する美的感覚の共感を求められてもどうにもならないぞ」
否定の姿勢に入る彼に、ジャック・オーが説明の口になった。
「さっき見せた《Black Lotus》と違って、これのテキストは中央揃えになっているの。普通は左揃えなんだけど、特別扱いになっているワケ。
しかも文章が短い! マジックに限らず、多くのカードゲームでは『短いテキストは強い』と言われているわ。
長いテキストは、大体の場合は効果を発揮する制約が書かれているから。特定のタイミングでしか発動できないとか、追加でコストがかかる、とかね。
この短さと、中央揃えの美しさ! 《神の怒り/Wrath of God》が、全てのクリーチャーを吹き飛ばすほどの凄まじいものだと暗喩してるのよ」
ジャック・オーが拳を握って熱弁し、その熱の燃え移りがレイヴンの頬にかかる。
「……まあ、把握した」
「分かればよろしい。長いテキストなんて、言わばアメリカの説明書みたいなものよ」
アメリカ生まれアメリカ育ちの人格に言われれば、説得力もあろう。
ジャック・オーだけではなく、レイヴンも彼なりにカードを見ていた。
多くのテキストは朧気に把握できる程度であるが、その中でも理解できる文字列はある。

「ルール文の下にある文章は、ゲームに効果のないものだな」
《死者の鏡/Lich's Mirror》をジャック・オーに見せて、推測を確定させようとする。
「ええ。フレーバーテキストって言って、その名の通りカードの味付けの為の文章よ」
――それが映すのは、あるべきお前ではなく、ありしお前。
イラストと相まって、その文は抗えぬ年月を指している。
図らずも己の過去を振り返り、レイヴンが苦笑する。
「まあ、これなら私にも読めるな」
「そうね。フレーバーテキストも、マジックの魅力の一つよ」
言いつつ、ジャック・オーがカードを見せる。

――小枝を踏み折れば、骨を折ってあがないとする。
「森を荒らす者には容赦しない。そんなエルフの在り方が一文だけで分かるのはいいわね」
「……過剰な等価交換だな」
「まあ、そんなおかしさもあっていいんじゃない? おかしいフレーバーテキストもあったりするし」

――「人々がなぜ諸刃の剣が良くないというのかわからないな。 剣なんだぞ。刃が二つもある。」
「上等な人間の台詞だ。下等な私にはとても吐けないな」
皮肉を心よりこめて、レイヴンが感想を漏らす。
と、彼は色とりどりのカードを見下ろし、向けた皮肉を己に変える。
「いずれにしても、この一枚一枚には、語り得るものがあるという事か。
たかが色のついた紙片だが、こうして年経て言葉にされる。
言葉にされないよう、静かに息を潜めて在り続ける者には実感できないものだ」
「…………」
レイヴンの言葉に、ジャック・オーは静かに笑んだ。
「じゃ、これ」

名前、イラスト、テキスト、フレーバー。
上から下へ目で舐めて、特筆する事は見当たらない。
一つ違う所と言えば、特殊な印刷加工がなされており、光り輝いている事か。
「何だ、これは」
「《Black Lotus》の時に言ったわよね。強いカード、珍しいカードには価値があるって」
「覚えている。あれに匹敵するほどのものなのか?」
疑問に首を振るジャック・オー。
「いいえ。これは《嵐雲のカラス/Storm Crow》。
能力は、『飛行』という能力が書かれているだけ。パワーが1でタフネスが2。ゲーム内でも弱い方よ。
最も希少度の低い、コモン・カード。つまり大量に出回っているわ。
その上、再録禁止に指定されてもいない。何度も再録されて供給されているの。
これはフォイル加工されているけど、他にもフォイル加工されているカードは一杯あるわ。単に特別扱いされている訳でもないわね」
「ならば、強くも珍しくもないカードか。それがどうした?」
「高いのよ。35ドルくらいだったかしら」
ジャック・オーはレイヴンの手に《嵐雲のカラス/Storm Crow》を渡すと、由縁を話し始めた。
「弱いし、珍しくもないカード。でもね、それが高さの理由。
本当に弱いの。その弱さがプレイヤーの間で話題になって、人気が高まって、その人気が価格に反映されたのよ。
後に、販売会社が《カラスの嵐雲/Crow Storm》なんてジョーク・カードを出してしまうくらい」

「本来は見捨てられる存在であっても、見出す人がいればその価値は高くなるの。
カラスのレイヴンだってね」
茶化すように諭すジャック・オーに、レイヴンが首を振る。
「誰も私を見るはずがない。何者も、私を認めないだろう」
「だって、私がいるもの」
力強い、否定を否定する肯定。
「貴方が私と過ごした時間は短いかもしれないけど、私が貴方と過ごした時間は長かったわ。
それに、私だけじゃない。あの人だって、貴方がいなければずっと苦しんでいたでしょうね」
「…………」
ジャック・オーの蜜な説得に、レイヴンは真正面から折る事も、受け入れる事もできずに往生する。
「ありがとう、レイヴン。
貴方がいなければ、今生きている人がいる現在を、かつて遊んでいた過去を、こうして見つめる事ができなかったわ。
だから、私は未来の為になれる。ここまで存在してきた世界を、続けようと思うの。
今のこの体は、いずれジャスティスと融合する。今の人格も――完全に、アリアになるわ。
こうして貴方と話している私が消える。……正直に言えば、怖いわ」
カップに触れる。温かい陶器の肌を撫で、震える。
「そういう意味では、このカードたちも、聖戦を経てプレイヤーがいなくなって、価値が消えたと言っていいわね。
でも、こうして人の手に今だある。時を超えて存在できる。
確率的に低くても、語り継がれる可能性があるというのは、それは希望というものなの」
ジャック・オーが目を閉じた。
現実を生き、行き交う人々。
営みは喧噪となって彼女を包み、視界がなくとも存在を主張する。
悲しげに座る彼女を見て、レイヴンが一枚のカードをつかんだ。
その意味は分からない。どのようにゲームに影響を与えているのか分からない。
だが、時間を象徴するのは分かった。故に、言葉と共に渡す。

「お前は私と遭遇した以上、お前の存在は永遠に記憶される。
それでは、不満か」
レイヴンの文意に、ジャック・オーは暗幕の目蓋を上げる。
開くのは、一世一代の劇のように煌びやかな、灯火の目。
彼から渡された時間を手に取り、彼女は心から喜びを示した。
「――いいえ、満足よ」