Innocence and Immortal

 豪奢にして堅牢なるイリュリア城。
 いくら連王と関わりの深い知人であろうと、その正門をくぐれる者はわずかである。

 例え、連王その子息を預かるソル=バッドガイその人であろうとも。

「11時23分、『背徳の炎』の入城を確認」

 イリュリア城の正門から大きく外れ、城壁にぽつりと設けられた門。
 いくら小さな門であろうとも、見張り番となる兵士は存在している。
 兵士はソルの姿を確認すると、慣れた様子で彼を入城させた。

 その様子を、従者たる鴉が見ていた。

「行け、行くんだ」

 ORGANの命令のままに、シュヴァルツヴォルケンは羽ばたいた。
 不審者を拒むイリュリア城のセキュリティを、不審鴉(シュヴァルツヴォルケン)が容易くクラックする。
 ミニオンとしての存在を偽装し、ただの鴉に見せかけて、ヴォルケンは城門の上をはばたき通り過ぎる。

 ヴォルケンと感覚を共有している今、レイヴンの視界はイリュリア城を見下ろすビジョンがはめこまれている。
 レイヴンの翡翠に輝く右の眼も、金貨が埋めこまれた左眼も、今はヴォルケンの赤眼と同化していた。
 両眼を赤く染めて、レイヴンはソルの挙動を監視する。

 ソルの位置を確認しながら、城内に設けられた庭園に着陸した。
 監視対象に追いすがりながらも、不審に思われぬよう距離を取る。
 芝の中をつつき、虫を探す鴉の振る舞いをし、イリュリア城内の日常に溶けこんでみせた。

 城に入ったソルは、案内する兵士についていき、庭園続きの回廊を歩く。
 ヴォルケンは耳羽をそばだて、ソルと兵士の会話を盗聴した。

「――では、シン様については後程?」

「宿に置いてきた。
 久々にカイやディズィーと会えるのに興奮して寝付けなかったらしい」

「それで、寝るのが遅くなり寝坊した、と」

 兵士が苦笑し、ソルが苛立たしげに舌打ちした。

 成程。
 道理でシンを連れていない訳だ。

 レイヴンは状況の辻褄を把握し、ソルはヴォルケンに追いすがった。
 しかし、単にソルを追うのであれば、本能に基づく獣畜としては不自然な行動である。
 歩む間に地面のあちこちに嘴を突っこみ、普通の鴉を装った。

「よろしければ昼食はいかがでしょうか?」

「……ああ?」

「カイ様のご提案です。とはいえ、ご提案なされたカイ様はまだ公務中の為、ご一緒できませんが……。
 ただ、ディズィー様でしたらご出席は可能です」

「なら、シンが来るまで待てるか?」

「14時まででしたら、恐らくは。
 シェフが料理を温めてはいますが、皆の昼食が終われば皿洗いに駆り出されてしまうでしょうから――」

 平和的に紡がれる会話を聞き、レイヴンは口を「へ」の字に曲げた。
 人並の善意こそあるが、疎ましく思う人物の幸福な平和を祝えるほどの聖人ではない。

 ささくれ立つ感情を放置して、レイヴンはヴォルケンを更に追わせる。
 だが、ソルが歩みを止めたその瞬間、レイヴンは危機感を覚えてヴォルケンを飛ばした。

 大きく羽ばたき、ヴォルケンがその場を離れる。
 その去り際に、危機感の正体が耳羽を揺らした。

「ソル様?」

 立ち止まるソルに対し、兵士が疑問の声を発する。
 ソルはしばらくヴォルケンのいた芝を見つめた後、首を正面に回した。

「……気にすんな。
 単に、死にぞこないがいるかと思っただけだ」


 ソルはイリュリア城の一室に案内され、それから数分監視を続行しても動きはなかった。
 それだけを確認して、レイヴンはヴォルケンをイリュリア城から引き揚げさせた。

 己の存在に気づかれずとも、相手に感づかれた以上、深追いは禁物だ。ヴォルケンとの感覚の共有を断ち切る。
 視界に満ちていた城内の景色から、緑溢れる木々の景色に切り替わった。

 レイヴンがいるのは、郊外の雑木林であった。彼は大木の枝の根本に座り、幹に身を預けている。
 遠く離れたこの場から、監視の目を配せていたのだ。

「11時40分、しばらく監視を打ち切る」

 虚空に報告し、法術による音声記録を閉じる。

 レイヴンは「背徳の炎」の動向を探る任を担っている。
 この音声記録は、後程「あの御方」にかしづき報告する為の備忘録である。

 彼は強く目蓋を閉じ、眉間に皺を寄せた。

「『背徳の炎』が……」

 己が敬愛し忠誠を捧げる「あの御方」は、己を動かす程にあの化け物へ強い関心を抱いている。
 事実、

『レイヴン、フレデリックの体調はどうだった? ――いや、ドラゴンインストールの侵蝕が無いかと思ってね』
『レイヴン、フレデリックはどこに行っていた? ――ああ、あそこか。あそこは昔、プロジェクトが終わったら三人で行こうかと思ってた場所で――』
『レイヴン、フレデリックは何を食べてた? ――ラムレザルに連れられてパンケーキ? ふふっ、今日のお菓子はそうしようかな……』
『レイヴン! その傷は一体……! ――そうか、それ程深くなかったか。良かった、後で手当てしよう。
 ――それで、今日のフレデリックは?』

 過去のそのやり取りを思い出す毎に、憎らしいだの妬ましいだのといった感情が吹き荒れる。
 感情を失いたくはないが、こんな不愉快な感情を覚えたくはない。

 しかし、任務である。
 自分の感情の為に、どのようであれ「あの御方」の思惑を阻んではならない。
 頭部にかかった負の靄を払うべく、頭を振って思考を切り替えた。

「……昼時か」

 そうつぶやき、腹部をさすった。

 早朝に口にした軽食は早くも消化されてしまっている。
 顔が溶けれど再生し、首を切られど生え揃う不死であろうと、飢えはある。

 飢えに快感を覚えない事もないが、快感に溺れれば法術に集中できなくなってしまう。
 私事で任務に支障を来しては、「あの御方」に顔向けできない。

 レイヴンは仕方なしに手を横にかざし、風の法術を呼び起こす。
 わずかに膨らんだ地面を始点とし、その上高く、樹上のレイヴンの手を終点に。
 局地的な竜巻が引き起こされ、地面は風の螺旋に穿たれて、地面を膨らませていた「もの」が吹き上がる。
 レイヴンの手にその「もの」が収まると、「もの」はヂイヂイと悲鳴を上げた。

「もの」とは、土まみれのモグラであった。
 どうやらモグラも昼食にありつこうとしていたようで、小さな口にミミズを咥えて離さない。

 食事というものは、正常な活動を送る上で避けられぬ、億劫な行為に過ぎない。
 美味や美学を見出す感性はとうになく、レイヴンは躊躇する事もなく口を大きく開く。

 己の運命を察したモグラは、一際暴れて抵抗した。
 だが、人間の膂力から逃れられる事はなく、モグラはミミズと一蓮托生。喉に無理矢理押しこまれる。

「ンン゛ッ……!」

 足掻くモグラの爪が喉に食いこみ、蠕動する筋肉に傷を深く抉られる。
 消化管の柔い粘膜に、モグラの毛皮は剣山のように鋭く刺す。

 生命の有様がレイヴンに予想外の快楽をもたらす。
 その上、自分が土まみれの(けだもの)を、ぬめり蠢くミミズごと食べているという事実が、精神に揺さぶりをかけた。

 喉を圧迫しながら胃に下ったモグラに満足し、レイヴンは食後の舌なめずりをして歪に笑んだ。

「常人の舌に合わせたつまらない料理よりも、ずっと満ち足りたものだったな……」

 昼食の準備に追われているであろう、遠く離れたイリュリア城に向けて、自嘲気味にそう囁く。
 徐々に静かになっていく胃をよそに、レイヴンの耳に突如として声が響いた。

ガアーッ!(マスターッ!)

 馬車に轢かれる間際の鴉のような。そんな悲鳴がつんざいた。
 レイヴンは食後の余韻を壊されて、やや不機嫌な様子で応答のチャネルを開いた。

「何だ」

『マスターッ! お昼ご飯に! お昼ご飯になりますーッ!』

「昼餉なら済ませた。貴様に昼時を告げろと命令した覚えはない」

 耳ではガアガアと鴉の鳴き声がするだけだが、それでもヴォルケンの意思を感じ取れるのはマスターの特権である。
 でなければ、チェリーだのエクレアだのの騒音から、敵マスター発見の報告を知れる事はない。

 ぞんざいに返答するレイヴンに、焦りを含んだ声が続く。

『ああっ違います! 私はご飯時を報告したのではないのですー!』

「では何だ? 無駄は省け、端的に言え」

『敵マスターです!』

「マスターだと?」

 疑問符を浮かべ、レイヴンは黙る。
 自分以外のマスターといえば、六人しか考えられない。

 連王としての職務を果たしている最中の者か、
 今頃高いびきをかいているであろう阿呆か、
 行方が杳として知れない飄々たる狐か、
 人目のつかない場所で頭を回す竜なるGEARか、
 そして既に壊れた人形であるか――。

 思考をよぎるのは、それらの可能性を焦がす程に濃い紅蓮の炎。

 レイヴンは舌打ちし、大木の枝から跳び下りる。
 すぐさまヴォルケンの座標をORGANにて確認した。

 座標が示すのはイリュリア市中。
 幸いにして、人目の多い大通りから外れた位置である。
 レイヴンは瞬時、自らの存在そのものに迷彩をまとい、付近に転移した。

 閑静な雑木林から、白亜の石造街へと空気が切り替わる。
 細い道。人通りのまばらな中、レイヴンは通行人を避けながらヴォルケンの座標へと駆け寄った。

 仮に、その「敵マスター」が推測通りに「背徳の炎」だとすれば。
 ヴォルケンを事細かに検分し、その裏にいる自分の存在を知られてしまう。

 危機感のまま、レイヴンはついにヴォルケンの座標に辿り着いた。
 人目のない裏路地に身を躍らせると、そこには――。

『イヤーッ! お昼ご飯になっちゃいますーっ!』

「おっ? 活きのいいカラスだな! きっとこいつはデラックスに旨いぜ!」

 木の棒に縛りつけられ、焚き火に焼かれているヴォルケン。
 涎を垂らしながら、木の棒に縛りつけたヴォルケンを焼いているシン。

「…………」

 想定も予想もしていなかった間抜けな光景に、レイヴンは脱力して膝をついた。
 未だに空間迷彩は解いていない為、シンからすればレイヴンを見る事はできないが――、

「ん……?」

 鼻をひくひくとさせて、シンは露骨に嫌そうな顔をした。

「くっせぇ……まるで一か月洗ってない靴下みたいな臭いがするぜ……」

「誰がだっ!」

 心外である。その上尊厳の侵害である。
 脊髄反射的に抗議の声を上げたレイヴンだが、はっと気づき、後悔する。
 しかし、それは遅い後悔だった。

「うおっ!? 何だ!?」

 何もない空間からツッコミが飛んできたのだ。
 当然シンは驚き、声の上がった空間に目を向けた。

 気づかれた。

 自分の失態に歯噛みし、レイヴンはこれから取るべき行動を模索する。
 ほんの数秒の逡巡だ。それなのにシンはそれを待たず、ヴォルケンの木の棒から旗に持ち替え、好奇心のままに動いた。

「おりゃっ。」

 ドスッ。
 シンの虚空への突きは、レイヴンの鳩尾にクリーンヒットし、

「もっと深くゥ!」

 口が自然に嬌声を上げた。
 何かを突いたという手応えとその嬌声に、シンが驚きを口にする。

「マジジェットサイケデリック……風が語りかけやがった……」

「そんな訳が……あるか……」

 息も絶え絶えにレイヴンが返し、気づかれた以上は不要であると、空間迷彩を解いた。
 立ち上がり、苦々しくレイヴンがつぶやく。

「渡る風の虚実を見破る……よもや、養父譲りの技を持っているとはな……」

「いや、だって、砂浜に落ちてる海藻みたいな臭いしてるし」

 無慈悲にシンがレイヴンの心を抉りにくる。
 嘘偽りのない罵倒に頭がぐらりと揺れるものの、寸での所で耐え忍ぶ。
 そこにシンが追い打ちをかけた。

「おっさん、なんて名前だったっけ? ……えーっと確か、ジャック・オー? いや、フォックスアイ?」

「ガアアアァァッ!」

 怒りのあまり、頭を抱え大鴉の鳴き声を猛る。

「貴様は! 二度も相対した私の名前も覚えられぬ程の阿呆なのか!?」

「な、何だよアホとか言いやがって! アホって言うヤツがアホなんだからな!」

「その子供のような言い訳をする者が阿呆なのだ!」

「ガキ扱いすんじゃねぇ! しかもアホって二度も言ったな! オヤジにも言われたコトねぇのに!」

「それは私の名も忘れるような貴様が、阿呆と言われた事すらも忘れたからじゃぁないのか!?」

「ンなわきゃねぇだろ! ……多分!
 とにかく、最近のオレは九九の六の段だって言えるようになったからな! アホじゃねぇぞ! このアホ!」

「己の無知にすら無知なのか、手の付けようもない阿呆が!」

「違ぇよアホ! アホアホ! アホアホアホアホアホアホアホアホー!」

「青二才が、よくもそう減らず口を――」

 と、そこでレイヴンが口を閉じる。

「……アポ?」

 罵倒が飛び出すかと思っていたシンが、首を傾げた。

 別に、シンの知能指数に対して閉口した訳ではない。
 むしろこの状況では、自分の名を忘れていた方が都合が良いのだ。

 もしこの場で逃走したとしても、シンを撒いてから空間転移を為せるだろう。
 それにもし自分に会った事を「背徳の炎」に報告しようとしても、この様子では「レイヴン」という名が出る可能性は低いだろう。

 ならばこの場はそのままに、逃げる方が得策だ。三十六計。戦略的撤退である。
 そうわるだくみをしたレイヴンは、感情を殺してシンに向き直った。

「フン、阿呆という言葉は撤回する。この場は収めろ」

「うぉっ? いきなりなんだ?」

「私とて、別に貴様と無駄な喧嘩をする為にここに来たのではない。
 私は、お前が今手に持っている鴉を回収する為に来たのだ」

『マ、マスター……!』

 赤眼を輝かせ、縛られたまま地面に落ちているヴォルケンがガァガァと鳴く。
 レイヴンはシンに向かって手を伸ばした。

「さあ、その鴉を私に渡せ。邪魔立てはしてくれるな」

「この……カラスをか?」

 シンはレイヴンの手をしばらくじっと見ていた。
 だが、キッと睨みつけると、強く首を振った。

「オレが先に見つけた昼メシだぞ! 奪うのかよ!」

 鼻息を荒くすると同時に、彼の腹が抗議にグーと鳴く。
 シンは地面のヴォルケンを拾い上げると、苛立たしげな雷鳴が迸った。

「あーもー我慢できねぇ! こうなりゃ雷で三秒クッキングだ!」

『マスターッ!』

「くっ……待て!」

 ミニオンの一匹が無くなったとしても、「バックヤード」から再召喚すれば良い。
 だが、目の前で眷属が悲鳴を上げ、焼き鳥になるのを黙って受け入られる悪人ではない。

 レイヴンは制止の声を上げ、シンの行為と食欲を留めようとした。

「今日はイリュリア城に行くつもりだろう! そこに行けば食事も出る!」

「待ちきれねぇ! それに何でメシが出るとか分かんだよ、お前の言うコトがホントなのかも分かんねぇだろ!」

「ならば――腹を満たせばいいのか?」

「ああ、別にカラスがどうしても食いたいってワケじゃねぇし、交換できるモンがあるなら考えてやるぜ!」

 レイヴンはびしっと指を一本立て、シンに突きつける。

「一分だけ待て。肉と交換してやろう」

「一分……?」

「そうだ。一分だ。それくらいは待てるだろう?
 いや、子供であれば、目の前の食物に手を出してしまっても道理では――」

「一分だろ! ガキじゃねぇんだし、それぐらい待てるからな!」

 あからさまな挑発に、シンがかかった。
「単純だ」と内心呆れるものの、それを顔に出さずにレイヴンは首肯する。

「私が肉を渡し、貴様は鴉を渡す。
 これで契約としよう。ではしばし待て」

 そう言うと、レイヴンは今いる路地裏から、更に狭い横道に引っこんだ。
 シンは、不思議そうな顔をしてその横道に視線を送る。

「……なにすんだ?」

ガア(さあ……?』

 当事者のミニオンですら推し量れないレイヴンの考えに、各々首を捻っていると――。

 ザシュッ!

 『――ンギモヂィィッ――!』

 狭い壁の間で反響したのであろう、やけにくぐもった声が横道から響いてきた。

「なっ、なんだっ!?」『カア(なにッ!?』

 突然の叫び声に思わず飛び上がる一人と一匹。
 何が起こったのかは分からない。それでも横道から尋常ならざる気配が漏れ出し、確かめようという勇気は出なかった。

 謎の寒気に震える中、なおも続く嬌声と音。

 ブチィッ!

『――もっと――!』

 ギチチチチ……!

『――イイッ――!』

 バチャッ! バタタッ!

『――もっと深くゥッ――!』

 聞くだけで嫌な推測が沸き上がる、一分後。

 横道から出てきたレイヴンの手には、出所不明の肉が握られていた。
 どことなく顔が紅潮し、その目は熱を帯びている。

 後ずさるシンに構わず、レイヴンはその肉を差し出した。

「食え」

「食えるかよ!」

 もっともな反論である。
 シンは恐怖に震える指で、その肉を指した。

「どう考えたってヤバい肉じゃねーか!
 アレだろ! コレ食っちまったらなんか戻れなくなるヤツじゃねーか! 遠慮されたり本当に食べたのか問われる系のインモラルな肉だろ!?」

「肉には相違ないだろう」

「そりゃ肉つったらそうだろうけど、安心して食える肉じゃねーよ! 産地は分かるけど別のSAN値(なんか)が分かんねーコトなるんだよ!」

 抵抗するシンに舌打ちし、レイヴンは不要となった肉を空間の狭間へ投げ捨てた。

「ならば、何の肉なら納得する?」

「普通の、ウサギとかノウサギとかアナウサギとか、とにかく動物の肉だ!」

 真っ当なシンの要望に、しばらくレイヴンは考えこむ。
 そして再び首肯した。

「分かった」

「……本当かよ」

 疑うシンの視線を躱し、レイヴンはやはり再び横道に引っこんだ。

「…………」『…………』

 今度は嬌声はなく、やけに静かな様子である。

「……逆に怖ぇ」

カァ(同じく……』

 知覚情報を絞られると、人は恐怖を覚える。
 シンが覚えたくない知識を覚えた所で、ぬっとレイヴンが姿を表した。

 その手にあるのは――、

「…………」『…………』

 モグラだった。
 シンはそのモグラを指さし、恐る恐る問いかける。

「なぁおっさん……なんでそのモグラぐったりしてんだ?」

「夜行性だからだ」

 息をするように嘘を吐く。

「どうして……なんか濡れてんだ?」

「湿った場所から出てきたからだ」

 シンの不安は漸次に濃くなっていく。

「なんで……こんな街中の、土の地面もねぇトコで、モグラなんかを捕れたんだ?」

「下水道に潜って探していた。そこで見つけた。
 安心しろ。皮を剥いで焼けば食える。問題ない」

 赤ずきん問答である。

 シンの指摘した疑問点の解答は、レイヴンの昼飯を見た者しか分からない。
 しかし傍目からしても不穏な空気を醸し出すモグラは、みなぎる食欲を持つシンをもってしても食指を動かされないおぞましさを持っていた。

「うあああああああっ!」

 モグラの暗澹たる空気に耐えきれず、シンは石畳に向かって旗を振り下ろす。
 石畳はひび割れ、その亀裂から土を覗かせた。

 シンはレイヴンの手からモグラを奪い、その露出した土にモグラを放し、治癒の術をかける。
 幸い、モグラはすぐに地面に潜る。レイヴンはその様子を渋い顔で見て、苦言を呈する。

「貴様の望み通り、動物の肉だろう」

「オレはあそこまでデンジャラスな肉を食おうとは思わねぇ!」

「……食物の選り好みをするなど、『背徳の炎』の教育不足が過ぎるぞ。どうすればいいというのだ」

「もうテメェがやる肉は信じられねぇ! こうなりゃ店でちゃんとしたヤツを買う!」

 シンがそう宣言すると、即座にレイヴンの左手が動いた。
 左手はそのまま彼の顔に迫り、目蓋と指を開いて――左眼の金貨を剥ぎ取る。

 眼球の分泌物で濡れたその金貨をシンに差し出し、

「受け取れ」

「受け取れるかよ!」

 そんなやり取りに既視感を覚える。
 三度も拒んだシンに対して、レイヴンは苛立ちを押しつけた。

(Scheiße)っ。そんなに私のミニオンを食いたいのか?」

 その言葉を受けて、シンは目を大きくして訊ねる。

「えっ……このカラス、アンタのミニオンなのか?」

「そうだ。それがどうした?」

 シンがそれに気づくと、ばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。

「っつーコトは、このカラスって、俺だったらハミングソードみたいなモンなのか……」

 うんうんと一人で納得する。
 するとシンは、石畳に転がるヴォルケンを拾い上げる。

 彼女を拘束していた縄を解くと、レイヴンに向けてヴォルケンを投げてよこした。

「っ?」『(?』

 あっさりと解放された事に、マスター(レイヴン)ミニオン(ヴォルケン)共々戸惑うも、シンは首を下げた。

「ゴメンな……大事なダチを食おうとしちまって」

だち(友達)じゃぁないが……まあ、いい」

 自由になったヴォルケンが肩に留まり、レイヴンは踵を返す。

「用は済んだ。もう会う事はないだろう、雷公子」

「あっ、ちょっと待ってくれ!」

 シンはレイヴンのマントを左手で握り、彼の歩みを止めさせた。
 レイヴンは振り返り、睨みを利かせて問いを投げる。

「……何だ」

「……ここ、どこだ?」


 一体、何を間違ったというのだろう。

 この阿呆を「背徳の炎」だと思いこみ、ヴォルケン救出に向かった事だろうか。
 いや、ヴォルケンを見殺しにした方が良かったのか。
 そもそも、何故私が「背徳の炎」なぞの監視にあたってしまっているのだろう。

 どうしようもない後悔の波が、乾いた感情に寄せては引いていく。

「なー、まだかよ」

 マントを左手で握って離れぬまま、シンが不満をぶう垂れる。

 不承不承、目指すはイリュリア城である。

 道を教えようとも右と左を間違い、
 あの目立つ城に向かえと言っても、少しでも城が街路樹や建物で隠れれば方向を見失い、
 ヴォルケンを代わりに案内人とすれば、涎を垂らして危うい視線を彼女に向けた。

 シンをわざわざイリュリア城まで向かわせる義理はない。
 だが、騒ぎを起こす事なくこの厄介事を終えるには、腹立たしいがこれが得策であった。

 シンを連れ、レイヴンはイリュリア市中を歩く。
 何も知らない人間からは、己をただの人間だと認識するよう法術で偽装して、レイヴンは注意を払って進んでいく。

「いいか、私が案内するのはイリュリア城付近までだ。見張り番に顔を見せるような距離にまでは行かんぞ」

「えー? なんだよ、なんか不服か?」

「不服だ。現時点でも充分に不服だ」

「そんなに他のヤツらに顔見られるのイヤなのか?
 ……あー、そういや最初に会った時も、仮面かぶってて顔見せてなかったような――」

「…………」

 シンが何かを思い出そうとうんうん唸ると、すぐさまレイヴンは懐から飴を取り出し、彼に押しつける。

「おっ! またアメくれんのか!? 案外いいヤツだな!」

 思い出すという作業を中断し、シンは渡された飴を疑いなく口に含んだ。

 本来ならば、ジャック・オーの飴である。しかし、この場においては用途は異なる。
 シンが自分の正体を突き止めようとした時、気を逸らすにはうってつけの食料だった。

 レイヴンの思惑も知らず、シンは無邪気に飴を頬張る。

 残る飴は2つ。
 残距離は徒歩20分。飴の消費は1つ当たり10分のペース。ギリギリだ。
 その上相手は飴消費マシンなどではない。いつ自分の正体を探り出すか分かったものではないのだ。

 彼の不安を露も知らず、シンが話しかけた。

「にゃーおっしゃん」

「物を口に入れて喋るな」

「ぷはっ――アメ以外に、腹にたまるモンねぇか?」

「肉ならあるぞ」

「……いや、俺は遠慮しとく」

 レイヴンが己の肉をちょんと針で突くと、シンはそれで察したようだった。
 飴の持ち手を振りながら、シンはレイヴンとの会話を反芻する。

「さっきアンタが言ってたけどよ、なんでイリュリア城に着いたら食いモンが出るーって知ってんだ?」

「それは秘密だ」

「その上、俺が今日、イリュリア城に行くって予定まで知ってたし」

「禁則事項だ」

「んだよ、気のねぇ返事だな……」

 些か機嫌を損ねた様子で、シンは飴を口に入れた。
 自分はあくまで道案内役だ。相手の気分を(おもんぱか)る太鼓持ちではない。

 しばし互いに無言で大通りを歩く中、

 ――ぐぎゅるるるる……。

 と、シンから大きな腹の音が響く。

「やっべ」

 マントを握る左手ではなく、右腕で腹を押さえて音が収まるのを待つ。
 そして腹が鳴き終わると、シンはちらりとレイヴンの表情を探った。
 腹の鳴る前後で全く変わっていない彼の鉄の顔を見て、シンは右手でガッツポーズを作る。

「よしっ、バレてねぇ」

「ばれてるぞ阿呆が」

 全く表情を変えずレイヴンが返す。

「うぉっ!? なんで分かったんだ!?」

「あれだけの音を立てて誰の耳にも入らない訳がない」

「くっそー、俺だって恥ずかしいとか、そういう気分になったりするんだからな!
 それにアンタだって腹減ったりするんだろ! そんなに笑うなよな!」

「当たり前の生理現象などで私が笑うものか。
 私が笑ったとしても、それは単なるお前の見間違いだ」

 と――。

 ……ぐ、ぐぐうぅるる……。

 弱々しい腹の音が、レイヴンから発せられた。

 餓死をしない不死者であろうとも、腹も減るし鳴りもする。
 昼餉のモグラがまだ腹にいればこんな事にはならなかっただろう。

 レイヴンは口を曲げ、シンは可笑しそうに彼を指した。

「ぷーっ! なんてジャストタイミングなんだ、アンタ!」

「ええい五月蠅い! 指さすな!」

 流石に居心地が悪くなったレイヴンは、早足で進路を消費する。シンは笑いながらその足についていった。
 早く着かないものか、歩速に比例して感情が逸った。

 しかし、落ちたトーストが絨毯をバターで汚すように、不運は重なる。
 乱入した声が、早期の到着を阻害した。

「――いよー、久々! 確かアンタ、レイヴンだっけ?」

「――ッ!」

 シンの目の前で、己の名前を呼ばれる。
 呑気そうなその声は、横手から発せられた。

 レイヴンの存在は、一般人にはただの人間として偽装している。
 しかしその偽装は、レイヴンが誰であるか知っている者に対しては無防備なのだ。

 声の主にすぐさま目を向けると、ジャパニーズの衣装に袖を通した半裸の男がそこにいた。
 レイヴンは記憶を照会し、該当する名前を忌々しげに返す。

「……御津闇慈」

「何年ぶりかは忘れたが、また会っちまったなぁ。
 にしても、アンタの後ろにいるのは誰だ? もしかしてアンタの兄さん?」

「違う!」

 強くレイヴンが否定するが、シンは何故か瞳をきらりと輝かせた。

「兄さん? それってつまり、オレの方が大人に見えたってコトだよな!」

「おっ? すると違うのかい? こりゃ失敬!
 お二人さん同じくらいの背丈だし、もしかしたら……――っと思ったが、まあ、冗談だ」

 殺意の波動に目覚めつつあるレイヴンの様子を察し、闇慈は後半で自分の発言を誤魔化した。
 手持無沙汰に絶扇で己の顔を扇ぎ、闇慈が続ける。

「んで、わざわざその兄ちゃんを連れてどこに行くつもりだい?
 まさか、『あの男』の側近であるお前さんが、道案内って訳でもないだろう?」

 事情も知らぬ闇慈に図星を刺され、レイヴンは感情を暗くする。
 そんなレイヴンをよそに、シンがアメで闇慈を指して質問した。

「なあ、アンジ……だっけか?」

「おう。姓は御津、名は闇慈、雅号を『赫赫(かくきゃく)』! ま、気軽に呼んでくれよ」

「んじゃアンジ、このおっさんの名前ってさっき言ってたけど、それって確かレイぶぎゃぼっ!?」

 発言と意識を遮断する為、レイヴンはシンの頭に手刀を叩きつけた。
 下手をすれば人体をも切断する手刀である。だがシンのGEAR由来の頑丈さから、単に気絶するだけで済む。

 アメから手を離し、倒れこむシン。闇慈が憐れむ視線を彼に注いだ。

「もしかしてアンタ、この兄ちゃんに名前も明かしてねぇのか?」

「名なら過去に明かした。だがこの阿呆は私の名を忘れたらしい」

「そりゃ難儀なこって」

 飄々とした態度を崩さない闇慈に、レイヴンは鋭く言葉を刺す。

「それで、わざわざ私を呼び止めたからには相応の理由があるのだろうな」

「ま、それについては色々と、よ。
 ちょいと気になる事があってね。コロニーで病人が続出してるってぇ風の噂で聞いちまってさ」

「……それがどうした」

「だから、それを『あの男』か、あるいはその部下のアンタが知ってないかって事さ」

「それに今、この場で答えられると思っているのか?」

 その質問が、回答だ。

 闇慈はレイヴンの言葉を受け止めて、互いの視線を交錯させる。
 硬直した鍔迫り合いのような、緊迫した雰囲気が間に漂う。

 そんな雰囲気を切り裂くように、その咆哮が空気を震わせた。

 ――ぐぎゅうううぅぅぅぅぅぅ……。

 腹の音であった。
 それは先程も呻いたレイヴンの腹ではなく、闇慈の腹から鳴り響く。

「はうっ」

 闇慈は腹を抱え、声を震わせレイヴンに縋る。

「ほ、本題だ……」

「……先程の質問は本題じゃぁなかったのか?」

「……あんな質問にこの場で答えられるほど甘くはないだろうさ。まあ……駄目元だ……。
 それで……さっきの腹の虫で分かる通り、ここんとこほとんど食べてねぇ……」

「通りの人間に向けて、貴様お得意の舞の一つでもしてみろ。小銭の一つでも恵まれるだろう」

「それがな……最近警察機構がピリピリしてんのか、ちぃと芸を見せてやると追い払われるんだ。
 んじゃガラじゃねぇがそこらのバイトでもと思ったが、これまた厳しくて身元の確認を迫られちまう!
 姐さんだってコロニーにこもりっぱなしだし、こうなりゃモグラでも食おうかとしてる所に、アンタだ!
 こりゃ幸いと思って、声をかけたってぇワケよ」

「よりにもよって私か」

 頭痛がする。この頭痛は頭に刺さった針のせいではない。
 レイヴンは苦い顔をして闇慈を見ていたが、ここでまた一悶着を起こすより、穏便に事を収めた方が良い。

 レイヴンはジャック・オーの飴を一つ取り出し、それを闇慈に押し付けた。
 闇慈はそれを受け取ると、呆けた顔でレイヴンと飴を交互に凝視する。

「アンタ……随分と可愛らしいモンを持ってるじゃねぇか」

「それについては私の趣味ではない。
 それぐらいしか腹を満たせるものはないし、それ以上の慈悲を与える義理もない。
 さっさと私の前から消え失せろ」

 闇慈は凝視の対象を飴からレイヴンにすり替えて、うんと頷いてから微笑を浮かべた。
「気持ちの悪い男だ」と内心毒づく彼に向け、闇慈は発言する。

「ありがとよ! アンタ、けっこー優しいな!」

「誰がだ!」

 レイヴンはそれを皮肉と受け取り、怒声で闇慈に応える。
 だが闇慈は扇を振って「否定」を表し、レイヴンの怒りにさらりと返した。

「さっきはああ言ったが、やっぱりこの兄ちゃんを道案内してんだろ?
 さっき言った途端、アンタの表情が固くなったのが分かったのさ。

 それにアンタにとって、俺は『あの男に背いた裏切者』だ。
 いくらこの場を収めたいからって、こんなアメをくれてやれるとは俺も思ってはなかった。
 願いも足も蹴られるかと思ったが……ま、こっちにとっちゃ嬉しい誤算ってトコだな!」

 闇慈は早速飴を口に頬張り、レイヴンに背を向けた。

「ひゃあな!」

 恐らく「じゃあな」なのだろう、その言葉を受けて、レイヴンは何度も舌打ちした。

「物を口に入れて喋るな……」

 苛立ちの正体は、その愚痴ではない。

 優しくなどない。
 これまで何度も人間を手にかけてきたのだ。

 レイヴンはぞんざいにシンの襟首をつかむと、シンを引きずってイリュリア城へと向かう。

 そんな彼に、胸中で声が響いた。

 ――ならば何故、この阿呆をそうしてまで案内する?

「起きて癇癪でも起こされたら、敵わん」

 自問に自答を返し、レイヴンは全く優しさの欠片もない手つきで、シンを物のように牽引していった。


「オレの肉ーッ!」

 シンが何かを欲して腕を伸ばすが、それは空を掻いた。
 そこで彼は意識を取り戻し、何故か痛む頭頂部をさすって上体を起こした。

「いてて……オヤジに殴られて肉をブン奪られるドメスティックバイオレンスを見たぜ……」

 そんな夢はともかく、状況確認の為にシンは辺りをきょろりと見回す。
 視界に外套の人物が立っているのを認めると、立ち上がって距離を詰めた。

「おっさん! イリュリア城はどこだ?」

 レイヴンはまだ何も分かっていないシンの様子を見て、はぁと溜息をこぼした。

「ここまで来れば、お前だろうと分かるだろう」

 そう言って彼が指さした先には――、

「――おおっ! マジに着いたのか!」

 堂々かつ爛々とした佇まいで、その城は構えていた。
 一般人にとっては畏れ多いイリュリア城だが、彼にとっては幼い頃に住んでいた我が家である。

 その城をきらきらとした目で眺めていたシンは、振り返ってレイヴンに礼を送った。

「いやー助かったぜ! そうだ、なんかやるコトあるか? 『ぎぶ・あんど・てーく』ってヤツだ!」

「礼? そんなもの――いや、」

 断ろうとした矢先、胸中に小さな悪意が横切った。

「『背徳の炎』に知らせてみろ。『いつも貴様を見張っている。この世は月夜の晩だけではない』と」

「……それをオヤジに伝えるだけでいいのか?」

「ああ。それだけだ」

「なんか知らねえけど、分かった!」

 シンがはきはきと答えると、レイヴンが確認の為に問いかけた。

「おい、私の名を言ってみろ」

「え? おっさんの名前?」

「覚えているか?」

 覚えていれば、記憶を失くすまで殴るしかない。
 しかしレイヴンの望み通り、シンは首を傾げてうんと唸った。

「おっさん、なんて名前だったっけ? ……えーっと確か、ジャック・オー? いや、フォックスアイ?」

「……もういい。それでいい」

 別人に間違われる事は不愉快ではあるが、訂正したところで不利になるだけだ。
 レイヴンは釈然としないながらもシンの記憶力を受け入れる。

「もう私に用はないだろう。さっさと行け、行くんだ」

「おう!」

 シンが元気にそう返し、彼に背を向けてイリュリア城へと駆けた。
 それを見送り、踵を返そうとするレイヴンだったが、シンは声を上げるべく振り返る。

「あ! なぁおっさん!」

「何だ」

「道案内もアメも、ありがとよ!」

 シンが屈託のない笑顔で手を振り、体一杯に喜びを表した。
 レイヴンはその喜色に怪訝な顔をする。

「ん? なんだよ辛気くせぇ顔しやがって」

「よくもそう感情を表す事ができるな」

 綻びもしない口元を動かし、レイヴンが言う。
 その声色は、幾度も反芻しなければ分からないほどわずかな感情があった。

 羨ましいものだ。

 この飴は「あの御方」の手によって作られた。
 ジャック・オーの為に作られた飴ではあるが、他の人間にとってはただの飴に過ぎない。

 だからこそ、レイヴンの口に入ったとしても、それは飽き飽きとした砂糖の塊だ。
 例え「あの御方」の作られたものだとしても、これは陳腐な味覚をもたらす餌だ。

 そんな飴を甘受する存在を前に、レイヴンは最後の飴を指でなぞった。

「この場においては、これは私よりもお前の手にあった方が良いだろう」

 レイヴンは気まぐれに手を動かすと、飴がシンに放られる。
 放物線を描く飴は、シンの掌に収まった。

 シンはしばらくしげしげと掌の飴を眺めていたが、それを強く握ってレイヴンに目を向けた。

「優しいな、アンタ!」

 闇慈に続き、再度指摘されたその言葉に、レイヴンは口を開いた。

「……どうしてそう思う」

 二度も「優しい」と、自分から遠い形容詞を与えられた。その理由が知りたい。
 シンはその疑問に、あっけらかんと返答する。

「オレがそう思ったからじゃ、ダメなのか? 不安なのか?」

 そう答えられても、レイヴンは素直にその返答を飲みこめなかった。
 そんな自分と相手を対比して、彼は独りごちる。

「お前のように単純ならば、その答えで充分なのだろうな」

 自嘲と皮肉のそれは、シンに届かない。
 彼は純粋な笑みを湛えると、手を振りレイヴンに最後の言葉を送る。

「じゃあ、またな!」

 再会を勝手に契り、彼はそのまま城の門の向こうに消えた。

 立ったまま彼の背を見送ったレイヴンの肩に、ヴォルケンが留まる。
 何の表情も表そうとしない彼に、ヴォルケンはガァと一鳴きした。

『マスター』

「何だ」

『私から、マスターの事を語るのは僭越です』

「それがどうした」

 ヴォルケンは赤目を嬉しそうに窄める。

『ただ、私からはお救いいただいた感謝を述べる事しかできません』

「……そうか」

 レイヴンはただそれだけを返し、人の目から逃れマントを広げた。
 そのマントがヴォルケンと彼を包みこむと、その姿は黒羽と化し、黒羽が散ると、とうにそこには何もなかった。


 賞金首をいくら並べれば買えるのだろうというソファの上で、気兼ねも躊躇もなくソルが横になっている。
 頭部後ろで組んだ腕を枕にし、目を閉じて眠りについていた。

 そして彼が目を開けると、緩慢に柱時計を視界に収めた。
 二つの針が13時30分の角度になっている。
 昼食のタイムリミットである14時まで30分前。この分では、もうシンは間に合わないだろうか。

 ソファ向かいの椅子に座っていた人物は、ソルの覚醒に気づいた。
 ソファと椅子の間にあるテーブルに、手にしていたティーカップを置く。

「――久々にシンと顔を合わせられると思ったが、仕方ないな」

「……公務はどうした」

「先ほど終わったところだ」

「いつからいた」

「十分ほど前だな。お前は寝ている間でも眉根を寄せるのか」

「黙れ」

 ソルはソファから起き上がり、カイと向かい合う。

「随分と時間がかかったな」

「何分、調べる事が多いんだ」

 カイは苦無を取り出すと、それをテーブル上に置いた。

「エルフェルトの座標、『慈悲なき啓示』の特定、それにジャパニーズコロニーの異常……普段の仕事にそれらが重なってしまった」

「……結構な負担だな。成果は?」

「上げたいところだが、生憎」

「まぁ、ご苦労だな」

「いや、お前にも苦労をかける。シンも相変わらずだろう?」

「ああ。お陰でこのザマだ」

 柱時計を指した瞬間、長針が時間を更新する。
 カイが苦笑し、ティーカップに湛えた琥珀を飲み干した。

「シンがいないのは残念だが、ここで昼食にしないか?」

「分かった。行くか」

「私としては、お前と話しこみたい事もある。
 シンの事も、ラムレザルの事も、……三人目の『あの男』の側近だという、ジャック・オーについてもだ」

「……ああ」

 ソルは最後の人名を耳にして、顔に影を落とした。
 カイはその変化に気づくも、深く訊く事はなく椅子から立ち上がる。

「――オヤジー! めしー!」

 二人の静寂を破り、扉を開いて開口一番。
 空腹を訴えるシンに、ソルが口を閉じ、カイは苦笑した。

 そんな二人に構わず、シンは近寄って明るく声をかける。

「よお、久しぶりだな、カイ!」

「いつぶりだろうな、シン。また会えて嬉しく思う」

「それで、母さんは?」

「昼食の席についている。これから四人で食事にしよう」

「お! やっぱりメシがあるんだな!」

 シンのその発言に、ソルが眉を動かした。

「『やっぱり』? 昼飯がある事でも分かってたような口ぶりだな」

 ソルのその疑問に、シンがさらりと答える。

「ここに来るまでにさ、あの……あー、確かジャック・オーだかってヤツと会ってさ。それで教えてもらった」

「――ジャック・オーと!?」

 ソルとカイが、その名前をオウム返しに声に出す。
 シンは二人の驚愕にぽかんと呆けるも、まるで日常を語るような気楽さで続けた。

「え? オヤジ覚えてないのか? あの針のおっさんの――」

「分かってる! 本当に、ジャック・オーと会ったのか!?」

「ああ。アメだってもらったぜ!」

 そう言いつつ、シンはまだ口に入れていない飴を二人に見せびらかした。
 本物のジャック・オーと会った事のあるソルは、見覚えのあるそれでシンの発言をそのまま信じる。

「……それで、ジャック・オーが何をした?」

「えーっと……何したっていうと……」

 シンの記憶のテープが巻き戻される。
 ギュルギュルと回転する脳味噌が、最初からここまでの時間軸を割り出した。

「オレがカラス食おうとしたら来てよ、そしたらジャック・オーが友達(ダチ)だから食うなって言ったんだ。
 んで、ココまで連れてきてくれたんだよ!
 ……あ、でも途中、何か半裸のおっさんと会って……何かあった気がするんだが、思い出そうとすると頭がざらつくんだ」

 割り出した割りには、ざっくばらんとした供述である。
 ソルはシンの発言にどうやら納得したようで、昼前の疑念が確信(誤解)に変わった。

「あのカラス……ジャック・オーのヤツか!」

 本人(ジャック・オー)の知らぬ間に着々と誤情報が溜まっていく。
 そして、シンは取り零した情報を拾い集めると、ぽんっと手を打ち思い出した。

「あ! あとそういや、オヤジに伝言頼まれてたんだった!」

「何だ?」

「えーっと……確か、『いつも見守ってる。世界は夜ばっかりじゃない』……だったか」

 発生源から毒気を抜かれたその言葉に、ソルはふっと苦笑した。

 世界は夜ばっかりじゃない――明けない夜はない。
 例えエルフェルトが攫われ、「慈悲なき啓示」の脅威が迫る中であっても――必ず、夜明けは来る。

 その解釈はジャック・オーに秘められたアリアを想起した。

「あいつらしい言葉だ」

「ん? オヤジ、なんでそんなヘンな笑い顔してんだ?」

「黙ってろ。今は仮面被ってようが――俺の……昔の――恋人だ」

 最後こそ消え入りそうな声であったが、その声はシンとカイの耳に入っていた。
 シンはその言葉を聞いた瞬間、雷に撃たれたように硬直する。

「……恋人?」

 シンはその時、脳にかつてない程の電流が流れた。
 彼の限られた知識と経験から、ソルの言葉の意味の解釈をしようとする。
 困難な暗号に幾度も試みた解読は、ただ闇雲にブドウ糖を消費するに留まった。

 理解はしても認識ができないその現象に、ただ恐怖に震え始めた。
 顔色を青ざめた月とし、変える。

「カイ……」

「何だ、シン?」

「オレ……オヤジの事が、分からなくなってきた……」

「?」


「こちらレイヴン。9時44分、『背徳の炎』とシンの外出を確認」

 翌日。

 朝と昼の境目で、レイヴンは報告する。
 しかし、今回の報告は音声記録を取っていない。

 記録を取っているのは、傍らの女性である。

「はいはーい! 合点承知の助!」

 飴を舐めつつ、紙の片隅にメモを取るジャック・オー。
 そのメモの中央には、デフォルメされたカボチャや鴉が描かれている。

 先程まで、退屈しのぎにジャック・オーが描いていたものだ。
 流石に記録として残すものにそれはどうかと思うものの、落書きを止めれば暇潰しの種が無くなる。
 現在は子供の人格を表としている彼女にとって、それは辺りを放浪するのに充分な理由になる。

 大きく、大きく溜息を吐いた。

「昨日に引き続き、何故私は大きな子供の世話をしなければならない……」

 そんな嘆きを跳ね飛ばし、ジャック・オーもまた遠方のソルとシンを見やった。

「あれ? なんか二人とも、みょーに距離を開いてるよ?」

「それがどうした? 別に記録するまでも無い事だろう」

「だって、いっしょに旅する仲間なのに、フツーだったら3メートルも離れて歩かないよ!」

「……まあ、それもそうだが」

 二人の視界には、挙動だけでも粗暴を醸し出すいつも通りのソルと、
 鉄拳とも怒声とも違う、ソルへの謎の恐れから距離を取るシンがいた。

「なんでだろ?」

 そんなジャック・オーの素朴な疑問に、

「私が知る訳がない」

 元凶が、つっけんどんにそう答えた。