異常無

 何が原因かは知らない。

 前日からレイヴンは、小さな宿にいた。
 拠点でも山奥でもなく、他人の目のあるこの場を選んだ理由は、彼自身にすら分からない。単なる気の迷いであった。

 今分かるのは、一分以上前に血を流した手の甲の傷が、癒えていない事。

 それが分かったのは、朝の七時に起床した時。
 ベッド横のチェストに右手を伸ばした時、ベッドの木板から突き出た釘に皮膚を掠めた。
 些細な恍惚にしばし感じ入り、立ち上がり、傷の発端である釘を探り当て、納得するまでに一分はあった。
 普通ならばその一分で、ただの擦過傷は塞がれている。

 彼の日常。起き抜けに手を伸ばすのは、頭部を貫く針。
 就寝の際の邪魔である針は、ベッド横のチェストの上に置いていた。
 その大きな針に手を伸ばした時、レイヴンは異常に気づく。

 異常ではなくなった、という事に。

 最初は疑心から、得物である針で己の手をほんの数ミリ刺した。
 傷から流血が肌色を横切り、重力に従って手から床へと数滴が解離し、乖離する。
 そのわずかな傷であるにも関わらず、瞬時に癒える事は無かった。

 夢のように思えた。

 自分がただの人間に返る願望を、何度夢に見ては幾度結局を見たか。
 夢は、今ここに呆気なく結実した。
 腕を伝う液体の温度は、紛れもなく(うつつ)

 焦がれるまでの熱情で追い求めた死にして生。
 だというのに、思考の戸を叩く感情がない。切欠がない。契機がない。予兆がない。実感がない。

 だから次に、罠だと思った。
 錯覚だと、自分が不死で無くなったという事実は偽りだと思った。

 真偽を明らかにする方法は、いつも通りに頭を針で貫く事。不死では無い証明とは、今死ぬ事である。
 単純明快な解明方法。しかしそれに躊躇する。

 万に一つ、死を迎えられたとして、自分の生をここで終着点として良いものか。
 だが、この機を逸したとして、そしてこの機が本物であるとして、二度目を待つのが良いものなのか?

 逡は巡る。針の刺し傷、床に降下した血液は液体の光沢を失い、固着していた。
 それだけの時間を費やして、レイヴンは針を収める。
 死を、決断を後回しにしたのだ。

 乞い焦がれ懇願した死を前にして、千年分のフィルムを走馬灯に()ける。
 千年分の自身を()くす事に躊躇はない。
 しかし、百年分の他人が、彼の躊躇いを生んでいた。



 秤にかけるのは、彼岸()悲願()
 苦悩が頭蓋を掻き回し、答えを朝日の内に出す事は叶わなかった。


 腹部の空洞を抱えながら、部屋を出た。
 頭に針はない。人体としての正しさに違和感を覚える。

 ここ数日で喉を通った物は、大気と清水だけだ。
 不老不死という鎖が途絶えた肉体は、養分の欠如を強く示している。
 腹が減っていた。

 レイヴンの泊まった部屋は三階だった。
 一階には食堂が設けられている。階段を下りながら、手の内にある硬貨が朝食を得るに充分である事を確認する。
 腹を膨らませたい。

「……っ」

 空腹から来る眩暈が目測を見誤らせ、下りる階段から一段を踏み外した。
 踏み外しの過ちに、脹脛(ふくらはぎ)を階段の角に強く擦る。
 穿物の下からじんじんと痛むが、心地よさよりも前に矮小なミスへの羞恥が勝つ。

 瞬時に傷の癒えぬ通常の肉体に、不甲斐なさを感じた。
 常ならば、不全の状態でも万全へと回帰し、食物どころか水分でさえも不要だというのに。
 だのに、この体と来たら不自由で不都合だ。

 ――不死の身ならば、このような事にならないというのに。

「……!」

 忌むべき不老不死にもたれかかっていた己の精神に怖気が走り、レイヴンは頭を振った。
 普通とはどのようなものかを忘れ、呪われた身を当然としていた事へ、自己嫌悪する。

 ――不死の身ならば、良いのだと言うのか? 私はそれを唾棄していたではないか。

 下降の中間、階段の踊り場に足を下ろす。そこに壁に嵌めこまれた窓があった。
 窓を覗きこむと、朝日の眩しさと、それに照らされた己の顔色が反射する。
 酷い顔色をしていた。不調の印はそのまま、不死なき体の正常性の証左である。
 喜ばしい事だというのに、些とも喜色が浮かばない。

 体調と心調が密になっている。
 不快、苦痛を唯一の快感としている彼だったが、己を蝕む苦痛に喜べる精神は消え失せていた。
 不快は、そのまま不快である。胃が捻るような空腹も、脹脛の擦り傷も、不調を訴える眩暈も、常人の感覚を取り戻す。
 苦痛が嫌だ。正常な反応が蘇り、困惑が思考の底でわだかまった。

 揺れる足で、ようやく一階に下りた。
 階段と接続していた廊下の角を曲がる。すぐに食堂の扉が見える。
 扉の奥から漂うバターと紅茶の臭気に、自然と喉仏が上下した。
 意識せず足早になる。距離を詰め、ドアノブに手をかける。

 扉を開き、日常的な風景に身を置く。
 食堂のキッチンにいたのは、昨日に宿帳を挟んで顔を合わせた宿の主人だ。
 朝食の時刻としては遅い。五卓の内、四卓のテーブルはいずれも空席で、ソースの乾いた皿が載っていた。
 残る一卓には、紅茶を喫し新聞を読む男が一人。

 レイヴンの姿を認めた給仕女が、慌てて手近なテーブルの空皿を盆に回収する。
 レイヴンは片付け途中のテーブルに近寄ると、女は気を利かせて椅子を引く。
 引かれた椅子に腰を下ろし、テーブルで寝ていたメニューを、指二本で拾い上げた。

 サンドイッチ、ベイクドビーンズ、マッシュポテト等の軽食が字体で連なる。
 偶の気分で人間の料理を口にする時、金銭と時間の観点から、大体はそれらを選んでいた。

 だが、体の具合は軽食の一つで済まない。何百年と忘れていた、本能的な飢えが喉を膨縮させた。
 すぐに女を呼びつけ、ステーキにトースト、オーバーイージー、ハッシュドポテトにミルクとオレンジジュース。口がずらずらと動く。
 読み上げた時間の二倍、女が伝票に書き入れる。そそくさと立ち去る背を見やっていると、不意に声が横入りした。

「最期の食事か?」

 背後より、今に限って有り得る可能性を提示される。

 レイヴンは警戒を以て振り向いた。
 発言者は一人だけ残っていた客だった。客は紅茶を飲み干し、新聞を写していた目をこちらに移す。

 長い銀髪をオールバックにした、褐色の男。
 彼は新聞を畳んでテーブルに置き、座っていた椅子をレイヴンの元まで引き寄せた。

「同席しても?」

「意趣返しのつもりか?」

「そう思ったなら、思う壺だな」

 かつて自分が浮かべていたように、目の前の男は嘲笑ってみせる。
 その男の名前がけったいな事は覚えていた。

 ヴェノム。毒の名を持つ暗殺者(アサシン)

「……勝手に他人の食事を、最後の朝餐に仕立て上げようとした理由は何だ?」

「単に思い出しただけだ。死刑前の伝統的なメニューだという事をな」

 互いに目を合わせて、口の形だけが笑う。
 ヴェノムは手を振り、話題を転換した。

「この宿は、私の新たな贔屓でな。君が食前に祈る際には、トーストの分だけ私に祈るといい」

「驚いたな。今のアサシンは救世主を殺す依頼も受けるのか。ワインもさぞや美味に違いない」

「期待を寄せて貰い申し訳ないが、私は暗殺者からパン屋に鞍替えしている。救世主を殺すにしても、復活する者をどう殺すものか」

 物騒なジョークを交わす間に、給仕の女が割って入る。
 焼く時間のかかるステーキ以外、注文の全てが盆に載っていた。

 トーストから漂う小麦の匂い。玉子は余熱にジュージューと音を奏で、ハッシュドポテトの焼き目が湯気を立てる。

 渇いた口から、唾液が湧く。不敵に笑っていたレイヴンの目が、欲望に囚われ食事に注がれる。
 自分を知る他人を前にしていても、感覚の殆どが一気に食欲へと集中した。

 格好が付かない。それでも、生物としての欲求が先走る。
 一変したレイヴンの様子を察し、ヴェノムは掌で食事を指し示した。

「ああ、そちらを優先した方がいい」

 勧められてから三秒、空白を入れる。言われてすぐに食いつくのは浅ましいからだ。
 それでも、きっかり三秒で手が俊敏にシルバーへ伸びては、それもやはり浅ましいと反省した。

 両面焼きの玉子にフォークを刺し、ナイフで切り出した欠片を口に運ぶ。
 カリカリに焼かれた香ばしい白身、熱で凝固し、歯で触れるだけでホロと崩れる黄身。
 濃い目に振られた塩分と胡椒が、玉子の風味を際立たせている。

 痛い程に、
 痛みに匹敵する位に、
 それが鮮明に感じ取れる。

 飽きていたはずの感覚が、千年前からやって来る。
 これまで当たり前に補充されていた体は、飢餓に置かれていた。
 欠乏の最中、口にする養分の有り難さを体そのものが歓喜する。

 馬鹿らしさに自嘲する。たかが食事如き。
 それでもフォークが止まらないのが尚更滑稽だった。

 食物を貪るレイヴンに、ヴェノムは困惑を抑えて平常を試みた。

「……君は、人間だな」

 レイヴンはジャムを塗ったトーストを口から離し、ナプキンで頬を拭った。

「今まで、何だと思っていた?」

 ヴェノムは表現を考えた後、実感を言葉に乗せる。

「怪物の類だと思った事がある。
 だが、今の君は、人間以外に見えない。
 以前よりもずっと、食事という行為に気を払っているように思える」

「――そうか」

 人間。
 今の自分は、人間だ。
 他者の目から見ても明白に。

 喜びを靄とするレイヴンのテーブルに、ミディアムレアのステーキが運ばれてきた。

 ステーキには新しいナイフとフォークを伴っていた。汚れ一つないナイフを取り、手の甲を撫でる。
 血は流れ、数秒で傷が塞がれる様子もない。

「……そうだろう」

 同意する。

 肉を切り分け、舌に載せる。生命が分け与えられる感覚がした。
 生死の循環の只中にいるように錯覚する。いや、実際その通りだ。

 今なら、今日なら、死ねるのだろう。

「これが死刑囚の食事と言っていたな」

「ああ。そうだ」

 皿に残った最後の一つを胃に落とし、レイヴンは席を立つ。

「どこに行くつもりだ?」

 ヴェノムの問いかけに、レイヴンは毒気もなく微笑した。

「日の光を浴びに」


 陽光は真上から降り注いでいる。

 舗装された道を行く。
 足取りが、朝食を取る前と違うのが理解できる。
 宿の階段に音を上げていた面影はなく、全身に満ち足りたものを感じていた。
 食事が、体力と気力を心身に与える行為である事を知った。

 充足。
 たかがマイナスからゼロへの回帰に過ぎないにも関わらず、精神がこれほどまで安らいだ事はそうそう無い。
 空腹の苦痛があれば満腹の快楽がある。
 欠くを知ったからこそ、足るを知れるのだ。それが不死の身では、常に足る状態にあったからこそ知らなかった。

 嗚呼、今は陽光すら愛おしい。

 光を浴せば、体表からゆるりと温まる。
 赤外線の温もりが全身を包み、自分が世界から許される気がしてくる。

 可笑しい。全く以て可笑しい。
 肉体が普通の性質に帰っただけで、痛みに到底及ばない、柔い刺激に快感を覚えるようになるとは。

 否、可笑しいのはかつての自分であったのだが。
 かつての自分が失っていたものを取り戻した今、全身が歓びを唄っている。

 そして、そうだ。自分は普通とは違う。
 普通の人間なら、これでずっと生きていたいと思うだろうに。

 今日この日にこそ、自分は死にたいと思い始めている。

 空は快晴。
 道を行く人々は笑顔。
 己を咎める者は何処にもなく、順風満帆に道は開けている。

 欠点のないこの日に死ねたら、この上なく人間として死ねそうだった。

 足の行くまま任せて、人の流れに身を委ねる。
 群集の川は、公園を目指していた。
 休日の陽気に、一人が、家族が、友人が、恋人が、生命のある緑に集まっていく。

 国営の公園だった。芝生は数インチに高さを揃えられており、植木は道を阻む事なく整えられている。
 子供は噴水にはしゃぎ、芝生ではスポーツやピクニックに憩う人々が多く、ベンチでは仲睦まじく老夫婦が語り合っていた。
 人々の輪を横目に、レイヴンは公園の奥へと歩みを進める。

 奥に進む都度、人の密度は減少した。やがて周りに人が認められないような、人工林の区域に立ち入る。
 人のいないこの場所でも、落ち葉が無いほど人の手が入っていた。
 綺麗に均された緑の絨毯で、レイヴンは仰向けに寝転がった。

 太陽と目が合い、眩しさに目蓋を下ろす。光が網膜を透き、赤が見える。
 血の赤。肉の赤。生命の赤色が視界に広がり、微睡みがにじり寄った。

 昨晩の睡眠は、二時間しか取っていない。
 ここまで歩いてきた疲労すら心地好い。それが地面へと吸いこまれるような快感がある。

 横臥の快感の源は、眠気だった。
 朝の食欲と同じくして、レイヴンは睡魔に体の支配を明け渡す。

 思考を緩ませ、体から力が抜け、脱力する。
 張り詰めていた糸が弛む。不要な緊張が無くなり、身体に温い心地好さが満ちた。

 外界への知覚を穏やかに失う。意識は脳に留まり、取り留めのない夢が巡る。
 体感の時間は数分。しかし現実は数時間。

 何ら変哲のない昼寝に忘我していると、すぐ隣で呼吸音を聞き取った。
 考えるよりも先に、すぐさま意識を眠りの海から引き上げ、隣の存在に警戒を構える。

 しかし、その存在が何者であるか知った時、すぐに構えを解いた。

「……ここで何をしていたの?」

 目にしたのは褐色の肌。幼なげな表情。
 ラムレザルは不思議そうに首を傾げ、レイヴンが寝ていた場所の近くで座り込んでいた。
 無防備な姿を見知った者に晒していたと知覚し、レイヴンはばつが悪くなり髪を掻く。寝癖が指にひっついた。

「寝ている以外の何をしていると思った?」

「寝ているとは思ってた。けど……」

 今度は首を反対側に傾け、言い淀む。表現が見つからないようだ。
 表現が思い当たると、ラムレザルは首を直した。

「けど、お前が寝るとは思っていなかった。
 お前の事、変な生き物だと感じてたけど、人間(ひと)と同じような事をしているのが、ちょっと嬉しい」

「……そうか」

 互いに目を合わせる。

 レイヴンとしては、ラムレザルが去るようであれば、再び眠ろうかと考えていた。
 だが、彼女の視線が自分から外れる事はなかった。

 深く息を吐いた。諦めて、レイヴンは一メートル離れた所に腰を下ろす。
 同じ目線で見つめ合う事に居心地の悪さを覚えて、二人並んで虚空に視線を置いた。

 風が温度を運ぶ。鼻腔を季節が通る。
 何事無き平穏に苛立つ事もなく、非常なる日常に身を委ねる。

 ラムレザルの唇が、花のように開いた。

「今日は良い日だ」

「ああ」

 同意と共に薄く息を吐き、頭蓋の中で花弁のフレーズが舞う。

「今日は――死ぬのにとても良い日だ」

 レイヴンの呼応に、ラムレザルが振り向く。

 平穏な空気に不似合いな、死という異物。それを讃える事に、違和感を覚えた。
 眉を下げて、ラムレザルは確認する。

「……それは、お前にとって『すごく良い』という意味として理解していいの?」

「相違ない。ただ、私だけの表現ではない」

 聖戦よりも前。自分ではない人間が紡いだ、文章の織。
 元となった文章をなぞり、レイヴンが詠う。

今日は死ぬのにとても良い日だ(Today is a very good day to die.)

 全ての生ける者は私と共に和す(Every living thing is in harmony with me.)
 総ての謡たう声が私の中で響く(Every voice sings a chorus within me.)
 凡ての美しき物は私の目に宿る(All beauty has come to rest in my eyes.)
 渾ての悪しき考を私の外へ放つ(All bad thoughts have departed from me.)

 今日は死ぬのにとても良い日だ(Today is a very good day to die.)

 私の土地は安らかに巡っている(My land is peaceful around me.)
 私の田畑は和やかに整っている(My fields have been turned for the last time.)
 私の住家は朗らかに笑っている(My house is filled with laughter.)
 私の子等は穏やかに帰ってくる(My children have come home.)

 嗚呼(Yes,)
 今日は死ぬのにとても良い日だ(today is a very good day to die.)

 言葉を絡めて吹く息が、大気に抱かれて世界となる。
 レイヴンの詠をラムレザルが受け止め、感じた波紋の一雫が口から溢れた。

「……死ぬ事を言ってるのに、そんなに嫌いじゃない」

 遠回しな肯定を聞いて、感情が微笑する。レイヴンは無表情を務めたつもりだった。
 それでもどうやら、ラムレザルは感情を嗅ぎ取ったらしい。そっぽを向いて、吐き捨てる。

「お前は嫌いだけど」

 線だけは引いて、ラムレザルの感想が終わった。
 互いが見つめる先に、緑豊かな林が見える。

 沈黙を、梢のざわめきが埋め合わせる。
 音の合間を縫い、ラムレザルは消えてしまってもいい声量で囁いた。

「……今日、死ぬの?」

 芝の上で座る彼女は、自分で自分を抱き締めた。

 死を語る人間が、本当に死んでしまうのかという推測。
 嫌っているとはいえ、知った存在が抜け落ちる事への不安。

 レイヴンの心に立つ秤は、生死の間で揺らぎはしても明確に傾きはしていない。
 答えは自分自身でも分からない。故に、質問から外れた道を打ち出した。

「私が死んだら、お前はどんな感情を抱く?」

 単なる興味。一寸の好奇。
 だというのに、それが本当に死ぬのだという宣言のように感じ取られてしまったようだ。
 殊更に、表情に陰を落とすラムレザル。救いようのない自分(レイヴン)の事だというのに、どうしてそうも可笑しい顔をするというのだ。

 ラムレザルは、目の前の人物を透かして別のものを視た。
 自分が亡くした、温かく小さいもの。悪戯をして、足元にじゃれついた、もういない存在。

 それでも、感情を素で出すのは意地が許さず、迂遠に心を言い表す。

「お前が死んだら――多分、いつもよりも長く眠ってしまう」

「――そうか」

 その答えに満足して、口をつぐむ。
 レイヴンはその場で立ち上がる。ラムレザルはその動きを視線で追った。

 ラムレザルは意地こそあるが、単純だ。感情をそのまま表に出している。
 レイヴンは彼女とは対照に、心を閉ざして緩く笑んだ。

「私の事は忘れて、よく眠るといい」

 去り際、定型の挨拶ではなく、彼女の眠りを祝福する。
 それに返す言葉を考える間に、ラムレザルの目の中では、黒い外套が街の奥へと縮まっていった。


 昼から夜になる境界、黄昏。
 死に切れず、生き損ないの自分の時間。

 道行く人々は、不死には持てぬ幸福を携え、普通の表情をして通り過ぎる。
 己もまた、普通に目覚め、普通に食事し、普通に寝て、そして普通に死ぬのならば。
 彼らのように自分がいつも通りだったのなら、その期限というのは今日限りなのだろう。

 死か主か。
 公園から街に歩く間に、秤は傾いていた。全ては今夜終わるのだ。
 その最後を楽しむ為に、レイヴンは変哲のない街のバーの看板を見つめる。

 ガラスが埋め込まれた扉を開ける。まだ夕暮れだが、通りに面しているお陰か、ちらほらと席が埋まっていた。
 店内にはテーブル席とカウンター席がある。一人の自分なら、一つの卓を占拠するのは忍びない。

 カウンター席の最も奥に座る。左隣は壁で潰され、右隣にしか席はない。
 カウンター内に中年男のマスターがいる。マスターはすぐにレイヴンの近くに寄り、静かに注文を待った。

 酒棚の隣にある黒板、チョークで書かれたメニューを一瞥し、レイヴンは注文をマスターに伝える。

「エールを一杯。それにベイクドポテト、ボイルドソーセージ」

 注文を受けてもマスターは無言、棚からビアグラスを取り出した。
 台の上に置かれた樽。その底から突き出た蛇口にグラスを当ててつまみを捻れば、麦皮色の液態が注がれる。

 フチまで泡が盛られても、溢す事なくグラスが置かれた。
 マスターはカウンター下の冷蔵庫からソーセージを、常温棚からジャガイモを取り出し、小さなキッチンで調理を始める。

 有機物の焼ける音に耳を傾け、エールを舐める。
 わずかに漂う塩胡椒の匂いに快くしていると、唯一の隣席に男が座って着た。

「お邪魔するよ」

 赤いバンダナにユニオンジャックの服を着た金髪の男。見覚えがあるが、頭にアルコールがあるせいか上手く突き止められない。
 酒の分解も、不死の能力があればすぐに解けた。酒という毒を解毒できない状態に、自分がまだ死ねる事を感じる。

「他の席に座れ」と苦言しようとして、目だけで店内を見回した。
 席は自分の右隣しか空いていない。憎たらしく盛況だった。隣席から漂う健常な人間の空気に、居心地の悪さを覚える。

 遅れて、皮を焦がした馬鈴薯と茹で上げられた腸詰がレイヴンの前に着席した。
 白磁の上で添い寝するナイフとフォークを手にする。ポテトとソーセージをナイフで切り出し、その二つをフォークで一緒くたに貫く。
 グラスを傾かせる。エールで洗われる咥内に、塩辛い熱が似合った。

 黙々と食事に時間を費やし、その隣で金髪の注文の声が否応なしに聞こえてくる。

「ウィスキー。ロックで」

 ユニオンジャックを着てウイスキーを飲む。
 イギリス人らしい振る舞いであるが、それを言えば自身も同じようなもので、独り苦く笑う。
 現に金髪もそう思っていたようで、こちらに会話を投げてきた。

「ドイツの人かい?」

「……そうだ」

 自身を明かす事に若干の時間をかけ、問題ないと判断して肯定する。
 出身の話は単なるフックだったようで、金髪は返答を受けてウイスキーを飲み、グラスを横に置く。

「――なあ、アンタ。隣のよしみで聞いて欲しいんだがね」

「何だ」

 素っ気ないレイヴンに気を落とす事なく、金髪の赤ら顔は過去を見る表情で続ける。

「俺は結構デカい力を――金を持っててね。
 コツコツ貯めた金で、ようやく夢を叶えようって所だったんだ。
 その時、その瞬間でしか叶えられない夢――」

 彼方を目に映し、金髪が語る。

「けど、人生ってのは都合が悪くてさ。
 その時、その瞬間に、俺の友達が借金を背負ってて、このままじゃ海に沈められて死んじまうってトコだったのよ。
 今を逃せば一生来ないかもしれない、自分の夢を叶えるのか。その夢ほっぽり出して、友達救う為に張るか」

 そこで、間隔が大いに開いた。グラス一杯が干される程、長い間隙。
 レイヴンはその空白に問いを差しこむ。

「……それで、お前はどう決断した」

 金髪は、目を尖らせて瞳を横に倒した。

「……アンタならどうする」

 夢か、友か。
 死か、主か。
 死ぬべきか、生きるべきか。

 他人の苦悩に己を映してしまうのは、感傷が過ぎる。
 それでも、レイヴンは決めた事に偽りなく、その答えを口にすると決めた。

 冷めたソーセージを喉に押しこみ、体内の炉の熱が生命を訴える。
 金髪のグラスで、溶けた氷が音を立てて沈む。切欠とも言えない音を皮切りとして、本音を開いた。

「友人を救う」

 夢を手放し、今を生きる人間に夢を託す。

 浪漫と、冷めた脳が揶揄している。
 それでもいい。浪漫に浮かれるような感情があるのなら、その灯を継ぐのも悪くない。

「自分の夢は一人でも見れるが、友と見る夢はその一度限りだ」

 嗚呼、酔っている。
 部外者にそう話していると、改めて自分が酒の毒に浸っている事が分かる。

 しかし、そうだ。
 自分は彼の夢を見ずに死にはしない。死ねぬものか。
 例え焦がれた死であろうと、この劇場を見逃してはなるものか。

「そうか……」

 金髪は返答を受け、顔を伏せる。グラスの口を指でなぞる。
 彼は目蓋を閉じると、数秒の思案を経た。

「……そうだよな。
 ありがとな。実は、俺は今後悔しないだけで、いつか苦しい思いをすんじゃねぇかって思ってたけど――。らしくねぇな!」

 金髪は、一気に氷の溶けこんだグラスを傾ける。
 酒気の帯びた頬を両手で叩き、ぱちんと音が響いた。

「俺はダチの手を握ったから、後ろ髪引かれずに彼女と会えるんだ。
 胸張って生きてくぜ。それで充分だ!」

 曇天が引くような、晴れた顔で金髪が笑う。
 金髪は馴染みの表情を取り戻すと、殆ど残ってないウイスキーのグラスをレイヴンに掲げてみせた。

「隣人に、乾杯」

 苦悩を払拭してくれた相手に対する、敬意と感謝。
 それを無碍にするほど無粋ではなく、レイヴンもまたグラスを上げて応えた。

「……ああ」

 キン、と涼やかな音を立て、二人の意思が交わった。
 互いに名も知らない。だが、この場ではそれで支障ない。

 夜に耽るには、おあつらえ向きの感情だった。


 バーの時針が十二時をなぞる。
 隣には金髪の姿はなく、いるのは自分と数人の客だけだ。

 旅立った隣人への思いを馳せ、頭脳が澄み渡る。
 酒の毒が一切抜け落ちた体で、レイヴンは己の選択に誇りを覚えた。