黒染めの雷鳥

※この小説は未完成のものです
瞬き一つ。
目に飛びこんできたのは、景色ではなく痛み。

「……!」

眼球と目蓋の間に大雑把な粒子が入りこみ、角膜と粘膜に傷をつける。
視界は、黒。口を開けば空気ではなく冷たい無味の粥が流し込まれたように。四肢がもがけば粘性のある液体と固体の混合物の感触。

推測する。自分は今、文字通り泥中にいる。
では、何故? 自分はジャック・オーを連れて、人の目のない森に降り立ち、雷雨に顔をしかめていた。

だが、全く何の前触れもなく、瞬き一つで様相一変。
濁流に呑まれたような、経時的変化のある事象ではない。
座標だけが泥中にすっ飛んだような、突拍子のないバグのような何か。

痛覚の快感を受け入れるより前に、現況と元凶を調べねばならない。
幸い、三半規管は正常だ。視覚が機能せずとも、平衡感覚があれば泥を泳げる。

別に底なし沼という訳ではなかった。手足を掻いて上昇すれば、すぐに鼻腔に空気が通る。
折れた幹らしき硬質の何かを蹴り、沼畔(しょうはん)まで泳ぎ、身体を地上に引き上げる。

顔面についた泥を剥がし、一息つく。

泥で塞がった耳には、くぐもった神鳴りが聞こえた。
激しい雨が髪を洗い、泥の黒髪が本来の白髪を取り戻す。

衣服は沼のお陰で、判別がつかないほど汚れていた。
見た目を整えるよりも、まずは状況を確認する。

木々が身を寄せ合うここは、恐らくは降り立った森と同一の場所だ。
だが、隣にジャック・オーがいない。はぐれてしまったのか、いや、こちらがはぐれたのか。

舌打ちをする。それは「バックヤード」にアクセスする端末であり、呪文と同等の音域である。
紡ぐ法術は、ジャック・オーへの通信。

だが、それは。
彼の思惑から外れ、単に雨音に掻き消されるだけに留まった。

「……連絡。座標。発信」

ジャック・オーへの連絡。現在の座標取得。緊急信号の発信。
三種の法術を唱えようとも、十二法階のいずれも反応しない。

彼はここで初めて、法力を纏わない言葉を発した。

(Scheiße)っ」

泥が耳の中にあるからか、声が反響して変に聞こえる。

法術が使えない? 馬鹿な。
しかし事実である。然程高等な技術も、莫大な法力を要求するでもない発信ですら、紡ぐ事ができていない。

何者かから妨害(バインド)、あるいは打ち消し(ディスペル)をされているのか。
敵の気配を探るも、広がるのは無人の音。ここで木が倒れようとも、その音を聞く人間は誰もいないだろう。

自分が法術を使えないとしても、最悪ジャック・オーに頼れば、どうにかはなる。
この森のどこかにいるはずの彼女を見つける為、彼は歩き出した。


体感にして一時間。木々につけた傷を目印に森をくまなく探していると、眼前に道が表れた。
道を進めば、人のいる場所へと出てしまうだろう。そう思って踵を返そうとするが、ふと足を止める。

彼女の幼い思考を模倣するに、人がいない場所より人がいる場所の方が楽しいに違いない。
今、ジャック・オーが「どちら」であるかは知らないが、存在の可能性を考えればこちらの方がやや上回る。

ならば、と彼は足を道に沿わせる。十数分もすれば、小さな町が目の前にある事を知れた。
雨は幾ばくか収まってはきたものの、依然濡れる事を嫌う人々が外から内へと退避している。

濡れ鴉になりながらも町に足を踏み入れると、背後からふっと雨が止まった。

「風邪を召しますよ」

「――ッ!」

体を急旋回させ、背後の存在と相対する。

ひょろ長の異形、いや医業だった。
妙な白衣に謎の紙袋を被った闇医者、ファウスト。
ファウストは雨に濡れるのも構わず、いつもの傘を自分に差し出していた。

「……何用だ」

「何用、と言われましても……まぁ、患者が増える事は喜ばしくない事ですので」

所作で真意を探った。本に、ファウストは善意で傘を差し出している。
そう判断した彼は、しかし長い腕から渡そうとする傘を拒んだ。

「貴様に借りを作るつもりはない」

「いえ、別に何かを返させたいわけでもありません」

その善意の気味が悪い。
自分は、この男と、刃と針とを交わした事がある。

立場は敵意。相手は善意。
己が何者であるかを示すべく、彼はファウストに名を主張した。

「私はレイヴンだ」

自分も彼も、互いの名は知っているはずだ。
しかしファウストは首を傾げ、釈然としないながらも名を受け入れる。

「レイヴンさん、ですか。いやはや……変わった名前ですね」

丸っきり平和に返され、苛立ったレイヴンと名乗る男は感情を声に滲ませた。

「よもや忘れたとは言わせんぞ。薬漬けの街(ドラッグド・タウン)、あの一件を」

情報をそこまで出し、ようやくファウストの表情――いや、雰囲気に変化が生じた。
変化と言っても、予測していた敵意ではなく、怪訝そうな様子だ。

薬漬けの街(ドラッグド・タウン)の、レイヴンさん……一人存じ上げておりますが、しかしそれは貴方ではない」

ファウストの困惑が彼にも伝播し、思わず身動ぐ。

「私ではない? あの時、あの場にいたのは確かに私だ。他に同名の何者かがいたというのか?」

「うーむ……貴方、最近は鏡を見た事がありますか?」

「鏡? 鏡など、意識して見ようとは思わん」

鏡の前に立ったとて、そこにいるのは変わり映えしない忌々しい己だけだ。

「鏡を見て、どうだというのだ」

「まぁ、どうとなるかもしれません」

言って、ファウストは得物である巨大なメスを取り出した。
清潔に磨かれた金属は、鏡としての機能も持ち合わせている。

刃が照り返す光に顔を映し、彼は初めて、ファウストの言っている事を理解した。

「――私じゃない」

混乱は増し、不可解の渦中に置かれる。
だが、目の前の自分は、(たが)いなく自分の顔とは(ちが)う。

忌み嫌う自分自身の顔をまじまじと見たくはないが、それが他人の顔となっては凝視せずにはいられない。

白髪ではなく赤髪。
碧眼ではなく扁桃色の瞳。
どう見ようともどう捉えようとも、それは自分ではなかった。共通点など、青白い顔くらいだ。

この事実に、一点だけ合点がいく。
法力の少ない体質の他人になっているならば、法術も使えないだろう。

だが、解答と同時に疑問が生まれる。
何故、己の肉体は他人のものになったというのだろうか?

混乱を一つずつ解消しようと沈黙を続ける中、ファウストは小さく進言する。

「他人の体にレイヴンさんが乗り移ったとか、そんな所ですかね?」

「……そうかもしれんな」

突如として身に降りかかった奇想天外であっても、受け入れなければただの阿呆だ。
目の前の珍妙な紙袋とやり合う気も失せる。そもそも法術も使えない今、勝算がない。
幸いにして、好戦的でない相手で良かった。

打算するレイヴンとは別に、ファウストは穏やかに手を差し伸べた。

「考えられるとすれば、何日前からですか?」

「そう前じゃぁない。今日、ほんの一、二時間前だ。
 ジャック・オーと連れ立ってここに下りて来たが、彼女(あれ)から、私が別人になったなどと指摘を受けていない」

「ふむ……突然、ですか」

「ああ。私が近くの森に降下していた時、前触れもなく沼に溺れていた」

「……沼に落ちてしまった、という事でしょうか?」

「いや、違う。空間座標がいきなり別の場所に変わったようなものだ。
 推測するなら、沼に溺れていた男と、降下しようとしていた私とに、精神の入れ替わりが生じた。そんな所か」

「もう一つの可能性としては『憑依』があります。
 情報体フレアに由来する現象として、いわゆる幽霊が他の体に乗り移ってしまうという事を、知人から聞きました。ただ、幽霊ではなく生霊でもそうなるかは知りませんが――」

「……どちらにせよ、私としては元の体がどうなっているのかが気にかかるな」

体の主導権を見知らぬ他人に握られているか、完全に意識を閉ざしているか。
ジャック・オーが傍にいるとはいえ、気が気でないのは確かだ。

本来の肉体がどうなっているかを確かめる為、レイヴンは街中を歩き出した。

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………おい」

「何でしょうか」

「何故ついて来る」

夕方の影のようにひょろ長くついて来るファウストに対して、レイヴンが後ろを向きもせず、疑問形の体をした拒絶を発する。
するとファウストは、あっけらかんと回答した。

「困っているようでしたので」

「人好しが過ぎるぞ。聖人でも目指すつもりか」

「大層な事ではありません。人並み程の善意は持ち合わせていると思いますよ」

いっそ空間転移して振り払おうかと思ったが、自分が自分でない事に気づいて舌打ちする。

「いずれ仇で返す。それでも良いというなら構わん」

「ええ。良いですとも」

後ろの様子は分からないが、紙袋のくしゃりという音が聞こえた。
それが口端の上がる音だと何とはなしに思い至り、妙に腹が立った。

「どちらに行くつもりですか?」

「街中をある程度散策する。ジャック・オーがいるかどうかをまず確定させたい」

「なるほど。その後は、降下先の森ですか」

「そうだ。それでも見つからないというのならば――」

と、レイヴンがその場で足を止める。
ファウストが彼の目線を辿ると、そこにはゴミ捨て場があった。

レイヴンはゴミ捨て場から鈍色の釘を拾い上げ、何事もなかったように話を続ける。

「――あるいは、我々の居場所に帰還したのかもしれない。そうなると少々厄介だな」

「はぁ」

ファウストの口は、気のない返事をしてしまう。
彼の突拍子のない拾得に、意識がそちらに向かっていた。

レイヴンは手慰みに釘を空中に放っては手でキャッチを二度繰り返す。
そして手慰みの延長線という感じで、レイヴンは何の前触れもなく、釘の尖端を自分の額に向けて――。

「――あアーッ!」

素っ頓狂な声を上げ、ファウストはレイヴンの手から釘を叩き落とした。
自分の動作を中断させられ、レイヴンはファウストに向かって抗議する。

「何をする!?」

「それはこちらの台詞ですよ!
 貴方、自分の額に釘を刺そうとしたでしょう!」

「そうだ。それの何が悪い?」

「死にますよ! 本当に!」

慌てるファウストの様子に、ハッとレイヴンが息を吸った。

「……そういえば、そうだったな」

ばつの悪い顔をして、レイヴンはゴミ捨て場に釘を投げる。

額を擦る。違和感を解消しようと無意識に痛覚を求めていたが、今のこの身は常人である。
ファウストがいなければ、下らない理由で生涯の幕を閉じる所だった。

「すまないな。この件については私の不備だ」

「分かって貰えればいいのです」

しかし、頭には変わらず違和感がわだかまる。
この違和感は、何というものだっただろうか。

頭を捻ると、数秒後に足がふらついた。

「……ああ」

今の体への不満を垂れると同時に、納得が行く。
違和感とは、眠気という名前をしていた。

常ならば、頭部には激痛をもたらしてくれる針がある。
睡眠を司る部位か何かを損傷しているからか、ここ数十年は目蓋の闇を見ていなかった。

一日の内の、数時間を闇に沈めなければならない。
常人の体のもどかしさに、指が固まる。

ファウストは患者の不調に目敏く、レイヴンの顔を覗きこむ。

「休憩しましょうか」

「いや、不要だ」

手を払うように振るも、腹の音がタイミング悪く重なった。
体の不足が明らかになり、言葉で否定したとしても往生際の悪さを露呈するのみだ。

「――食事をしましょう。普通の人は、お腹が減ったら注意力が欠けるようになります。
 お金が無いようなら、私が出しますよ」

「……分かった」

数歩過ぎたレストランの看板に戻り、扉を開けてベルの音が鳴る。

「いらっしゃいませ――」

ウェイトレスの一礼を尻目に、「急いでいる」空気を出して手近な空席に腰を下ろす。
テーブルの真ん中に置かれたメニューを持ちもせず、一番上の文章というだけで注文を決めた。

慌ててこちらに寄るウェイトレスを待たず、決定を朗読する。

「ペスカトーレ、一つ」

「私も、同じものを」

「しょ、承知しました」

手にした伝票にペンを走らせ、ウェイトレスが厨房へと足を急がせる。

「もう少し、落ち着いて考えてもよろしいのでは?」

「たかが補給だ。時間を取る必要はない」

どうせなら調理の時間が短いサンドイッチを注文したかったが、生憎ここはイタリア料理屋であった。
料理が来るまでの沈黙に、ファウストが口を開く。

「今の貴方には摂るべきものが多いです。
 食事の後は、宿で一服でもしたほうがいいですよ」

「流石に時間が惜しい。この食事だけ、浪費するのはそれきりだ。
 この借りはいずれ返す。金の借りほど、下らない縁はない」

「ええ、ええ」

ファウストは柔らかく微笑み、彼の棘を受け止める。

レイヴンは苛立ち、テーブルを指で叩いた。
パスタは茹でる時間と共に、ソースや具材を調理する時間もある。
長い凪に、泡沫の思考が浮かんでは弾けた。

今のこの身は、常人の身体である。
頭に針を刺せば当然死に、傷は数時間は開きっ放しだ。腕を潰されればもう二度と生える事は無く、空腹の限りを尽くせば命すら空になる。

「不便だ」という感想が浮かび、ぞっとする。
それが、本来の「普通」だというのに。

今の自分は、安易に死に絶える事ができる。
だというのに、不死身という呪いが、思考すら蝕んでいる。
あの忌々しい肉の方が優位だと考える自分がおぞましい。

自らの手を見る。
今、この手にナイフを握り、胸に突き立てたならば――。



死が得られる。待ち望み、乞い焦がれ、夢に見た死を。





「レイヴンさん」

数十センチ遠くから声が聞こえた。
レイヴンの思想を推測したファウストが、彼の方に手を乗せて諫める。

「……ちっ」

そう、今は、死ぬべきではない。
「あの御方」の忠実なる駒である。その行く先を見届けずに、他人の体を巻きこんで死ぬほど落ちぶれてはいない。

だが――。
テーブルが軋む。今この時にしか、死を我が物とする機会がないのではないだろうか。

思いつめるレイヴンの目の前に、湯気立つ皿が置かれた。

「こちら、ペスカトーレでございます」

二つの皿が並べられ、レイヴンは悩みを中止した。
ひとまずは、補給をせねばならない。フォークを手に取り、パスタの盛り上がりに刺しつける。
三度柄を回して具材を巻きこみ、口に運ぶ。

「――――!」

美味い。
五感による感動など失ったものと思われていたが、この感覚は百年ぶりだろうか。

温かなトマトソースに、柔らかく茹で上がったパスタと貝の厚い身が混ざり合い、舌の上を滑る。
体に不足していたものが確かに得られた実感が、味覚の心地好さとして伝わってくる。

そう。不足だ。
「美味い」と思えたのは、別にこの店が世界屈指の名店という訳ではなく、肉体が食事を渇望していたからだ。
常人の体は、餓死しても勝手に蘇る事はない。食事の重要度が、幸福度に直結する。

嚥下し、熱が胃まで下りた時、体中にじんわりと温もりが伝わっていく。
痛みを経由しない充足が、久方ぶりが過ぎてむしろ新鮮だった。

熱の余韻が収まる前に、フォークが動く。
二口、三口と続いてなお、味覚は正常に動作した。

「……っ」

我に返った時には、皿の上には貝殻しかなかった。

腹は満たされ、穏やかな高揚に肺が揺れ、深くため息を吐く。
そこでようやく、ファウストに目を向けた。

まだ手をつけられていない皿を前に、ファウストは紙袋の穴を穏やかに窄ませた。

「右の頬に、ソースがついてますよ」

無言のまま、ナプキンで頬を拭う。食欲を満たす事に耽溺していた。
面映ゆさから、ファウストに反感を抱く。

「お前は食わないのか」

「いえ、食べますとも」