絶望はちかく、されど隣人ではなし

過去捏造描写あり
死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

後世に「魔女狩り(Witch Hunt)」と名づけられたこの集団ヒステリーに、彼は巻きこまれた。

彼は戦火から逃れた「ふり」をして、ある村に住まう事とした。
彼としては、しばらく住んでから、自らの特異性を不審がられる前にずらかろうという目論見であった。

しかし誤算だったのは、彼が村の仕事として草刈りの役を当てられた際、指を鎌で切った事だった。

彼はその指を慌てて隠した。だがあろう事か、それを隣家の少女に見られたのだ。
少女は彼に駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

彼はその少女を払い退けた。だがあろう事か、それは傷ある手指の方だったのだ。
少女は彼に叫び立てた。

Witch(まじょ)!」

鎌は血で濡れているというのに、その指から血が流れる事はなかった。

常人にはあり得べからざる再生力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。

彼はすぐさま裁判にかけられる。
虚実をどれだけ織り交ぜて、抗議の声を何度も上げて、それでも裁判官は彼を川に連れていった。

石を抱かされ、
縄で結わされ、
耳を打たれる。

「沈めばWitchではない、沈まなければWitchである」

どちらに転べど、行くは死の道。
彼は川に沈むまで、何度も抵抗をし、首を振り、「嫌だ」と叫んだ。
その際に、離れた場所で囁いた少女の言葉を、忘れられない。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
川の底で何度も呪詛を吐いては、それは単なる泡となって水に流れる。

砂が角膜に貼りつくのも気に病まず、彼は目を見開いた。

狂う苦しみに苦しみ狂う。
酸素を渇望する脳が、頭蓋骨を割って這い出そうなほど痛い。
意識を失えば、いや死んでしまえば、いっそ幸福だった。

尋常にはあり得べからざる生命力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。


彼の肺胞が空気に触れる事を叶えたのは、四日後の大嵐の夜だった。

傷ついて正常に戻る彼の肉体。
狂えども正常に戻る彼の精神。

数える事もできない狂気から回復した時、彼が抱いた石は、大嵐の流木で別たれた。
これまで抱いていた重い女から解放され、彼は無気力に浮上した。

世に産まれてからつい四日前まで継続していただけの、呼吸という当然の行いは、
川に浸かってからはや四日間だけ停止していただけで、新鮮である錯覚に陥った。

川べりに腕をかけ、それでもすぐに川から上がる事はできなかった。

水を吐いて、息を吸う。
血を吐いて、息を吸う。
砂を吐いて、息を吸う。
泥を吐いて、息を吸う。
虫を吐いて、息を吸う。

肺から気体以外のものを排除すると、酸素を得た体はようやく機能した。

腕の筋肉を働かせ、川から体を引き剥がす。
水を孕んだ服と髪が、夜風にびゅうびゅうと吹かれたが、むしろその風が温かく感じる。

水流に洗われた体が大気に抱かれ、彼はある感情を覚えた。

九死に一生を得る事による、安堵や歓喜ではない。
九生に一死を逃す事による、落胆と絶望であった。

死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

いっそ猫の死は如何だろう。たった九回生きるだけで死ねるのだ。
しかし彼の死は稀有だろう。うんと何回生き長らえば死ねるのか。

嗚咽が、空気を取りこんだ肺から押し出される。
自然、彼は泣いていた。少女のように泣きじゃくる。

風が角膜に切りこむのも気に留めず、彼は目を打開いた。

なんでころされるの(何故殺されなければならないのだ)?」

彼は、天に在すという神に訊いた。

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
空の蓋で何万の星斗が嘲っては、それは単なる光となって彼に落ちる。

「私が何をしたというんだ!」

神の思惑が一端に触れる事を叶えたのは、四日後の大雨の夜だった。


森の中、人によって地肌を暴かれた道を行く。
道の木の根は掘り起こされ、岩石は横に転がり、平坦に整えられた道である。

しとど雨粒が落ちる中、避けようもない水の弾を受けて掻き進む。

脚下には、何処(どこ)へ繋がるかも知らない道がある。
足元には、何奴(だれ)が敷いたかも知れない道がある。

後退しても、既知のものが広がっている確証があるだけだ。
背後の道がどれだけ長いか記憶を持たないが、矢張進むしか道はない。

進行しても、未知のものが広がっている保証はないのだが。
眼前の道がどれだけ長いか見当が付かないが、結局戻るべき道はない。

ささと雨滴が降りる中、違えようもない光の筋が見えて立ち止る。

雨が眼球に染みこむのも気に掛けず、彼は目を抉開けた。

道の果てに、窓から光を零している建造物が、木々に囲まれ佇んでいる。
他人の存在が、そこにあった。

温かな光に当てられて、彼は途端に自分の体温を痛感した。
折角水温まで落ちた体温だったが、急にがちがちと(おとがい)が落ちる。
八日も前には他人のせいで川底に落ちたというのに、全く調子のいいものである。

幾度も滑りながら、
何遍も倒れながら、
それでも建造物の扉の前まで辿り着く。

雨で見えなかった扉にある、白銀(きらめ)く十字架。
それを目の中に入れ、彼はおののいた。

修道院だった。

石を抱かせられた源である、聖人(たむろ)す総本山。
それの目の前に立ち、彼がたじろいだ。

今に扉が目の先で開き
黒い手が己の腕を掴み、
光の中へ引き摺り込む。

漠然とした恐怖を空想し、彼は扉の前から逃げた。

逃げる、にしても地平の終わりまで走る訳ではない。
よろよろとその場から離れ、一番近くの木の後ろに隠れる。

彼が完全に隠れ、目だけを扉に向けていると、十字架の扉はゆっくりと開いた。
扉を開いたのは、黒く質素な衣に身を包んだ、老いた修道女である。

修道女は、扉の近くの鐘楼へ歩み寄っていく。
晩を告げる鐘の為に、鐘楼の修道女が撞木を振り上げた。

反響音が、雨に湿った空気に染み渡っていく。
晩を告げた鐘の音に、屋内の修道女が作業を切り上げた。

食堂を見せる大きな窓の光は一層大きくなり、その中で若い修道女たちが晩餐の支度を整えている所が見えた。

鍋を掻き混ぜる所を見て、男の喉が大きく鳴った。
ここ数日で、水以外の何も腹に入れられていない。

枝の葉から樹雨が降り落ち、背が冷える。
窓の中には湯気が立ち昇り、腹が縮まる。

自分を迫害した村から離れている修道院である。
施しを受けたとて、己をまた沈める事はないのでは。

そう推測するも、感情は臆病に竦む。
ただじいっと、修道院の晩餐の様子を見ているだけの行動を固着させる。

今や、体が凍える事はなかった。
自らが惨めな状況に追いやられる事など、当然に過ぎない。

神から嫌われているが故に、この不死の身を与えたのだ。
神から憎まれているが為に、この不死の業を負ったのだ。

己の来歴を反芻する間に、窓の食堂には修道女が出揃い、食前の祈りを捧げている所だった。

豪雨の五月蠅い沈黙が、やけに時間を引き伸ばす。
そんな中、彼が辿ってきた道から、集団が入りこんだ。

男の集団だ。身なりは襤褸切れのようで、旅の乞食と言っても納得できよう。
後ろで木に隠れている人間が恐れた十字架の威光を目の前にして、集団は何の気兼ねもなく扉を叩いた。

扉が開き、鐘を撞いたと同じ修道女が顔を見せた。
恐らく、彼女が修道院長なのであろう。

集団は、修道院長を前に、堂々と物乞いをした。

「旅の者だが、神様の慈悲を預かりたいねぇ」

信仰心のない物言いに、院長は顔を固くしながらも返答する。

「食事と屋根なら、分けられます」

「財産も娼婦でも、恵んでくれよ」

へらへらと笑う集団に、院長が毅然と断った。

「貴方がたに放蕩の罪を負わす事はできません」

院長は、これを最後として扉を閉じる。
院長は、それを最期として生を閉める。

「おらっ」

蠅を払うように、集団の先頭が腕を振り下ろす。
振り下ろす腕の先には、棍棒が握られていた。

その棍棒が院長の頭を割ると、ばっと赤い雨が降る。

男たちの集団とは、盗賊だった。

盗賊たちが手慣れたようにどやどやと扉をくぐっていくと、修道女たちの悲鳴が窓硝子を通って耳を貫いた。

聴覚を食む、喚く声。
視覚を染む、開く赤。

人間という信仰が、人間という殺意に潰されていく。

修道女の生涯の結末を迎える。
窓硝子に鮮明な血沫が広がる。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

疑問の形をした命乞が、修道院を抜けて脳を貫く。
男は、耳を押さえて現実を拒絶した。

その一部始終を見ながら、それでも、木に隠れた男は動き出さなかった。
あの渦中に入ったところで、動かない肉が一つ出来上がるだけだ。

目の前では、幾人もの人生が終幕する一大劇が供されている。
しかしそれは、彼が散々演じてきた絶命の真似事に過ぎない。

彼は重くなった目蓋で視界を遮断され、無意識のカダスに引き落とされた。


意識の闇を討ち祓う、朝の陽ざしで目を覚ます。
朝露に濡れた頬を拭い、彼は頭を起き上がらせる。

修道院の扉は開いたままだった。
そこから覗く風景に、生きている人間はいなかった。

危険性が全く無くなったと判断して、ようやく彼は心身を動かす事ができた。

修道院の扉をくぐると、血の冷気に抱かれる。

老いた修道女、醜い修道女、太った修道女はその全てが頭を潰されていた。
若く美しい修道女は、誰もが衣服を裂かれていた。

惨劇の結末が満ちる中で、それでも彼の目に特に映ったのは違うものであった。

食堂の奥にある、修道院長の為らしき席。
他の席はテーブルが倒されていたのだが、その席のテーブルとその上に載せられた食事だけは無事だった。

彼は修道女たちの遺体をまたぎながら、無感情に席へ向かう。

伽藍堂の席に座る。

彼は木のスプーンを手にした。
冷めた空豆のスープと、干し葡萄と、酒気の薄いビールを胃に収める。

頭に血が巡る。
感情と涙腺が湧く。
動物性から人間性へと近づいていく。

ようやく、彼は鳴き始める事ができた。

別に、自分という存在が特別に虐げられていた訳ではないのだ。

この修道女たちのように、罪もなく、神を信仰している者でさえ、
最期はこうして罪人たちに凌辱されて死んでいくのだ。

自分は神に嫌悪を寄せられていない。

その事実は、彼に安堵ではなく多大なる不安をもたらした。

自分は、常人とは異なる特別な一人と言えないのだ。
自分は、常世での単なる存在の一個に過ぎないのだ。

自らに与えられた不死とは、つまり、神が気まぐれに行った事の一つなのだろう。
その気まぐれの一つとは、この修道院の有様であり、ありふれた事でしかない。

(から)の白々とした皿に、陽の光が垂れ下がった。
(そら)の白々しい青さに、吐き気が込み上がった。

それでも、彼は胃袋に収めたものを捨てる事もできず、それ以外の価値のない修道院から離れた。
そして忘れる。